信照山蓮台院寿命寺
                     二十四輩第十六番 入信房

『二十四輩参拝図絵』は寿命寺の開基を二十四輩第十六番穴沢入信法師と伝えています。
源頼朝と佐竹氏

寿命寺に伝わる系図によれば入信房の俗姓は佐竹義繁という武士で、父は佐竹秀義、常陸国西那須郡穴沢の館に居たと記しています。佐竹氏は平安末には平氏と結び常陸の奥七郡を中心に在地領主として勢力をもっていました。佐竹氏は源頼朝と同じ清和源氏の系譜を引く一族ではありましたが、佐竹隆義(寿命寺系図によれば義繁の祖父)が平氏の家人として上洛中であったため、源頼朝の平氏追討の挙兵に参陣しませんでした。頼朝は平氏の追討軍を富士川で破った後に、京に攻め上らずに軍を常陸に進め佐竹氏を攻めました。佐竹秀義(寿命寺系図によれば義繁の父)は金砂山城に篭城しましたが、一族の寝返りによって落城してしまい、秀義らは奥州花園山に逃れていきました。
後に秀義は源頼朝の奥州藤原氏征伐に際し、討伐に向かう頼朝に馳せ参じ、宇都宮にて帰順を許されています。秀義は奥州征伐に軍功を挙げ、常陸介に任ぜられ鎌倉幕府の御家人となっています。『寿命寺系図』には義繁も父と共に参陣し軍功をあげたと記しています。


寿命寺本堂
佐竹義繁の求道

『二十四輩参拝図絵』には義繁は武門の家に生まれながら世の無常を観じ、世間の栄華や利益を求める姿を嫌い、隠遁の思を深めて穴沢にて菩提の道を求め、念仏を専らに西方への往生を求めていた。ある夜義繁は不思議な夢を見た。尊い法衣の僧が忽然として現れ、西方への往生を求めて長年称名念仏して怠りないが、自力の功徳ではいくらその功徳を積んでも、その甲斐はない。いそぎ小島の里に行って親鸞聖人に会い、弥陀の本願他力のご教化を受け、速やかに弥陀の慈悲に身をまかせなさい。私は西方の使いであるから疑ってはならないと告げ、天に飛び去るところで夢がさめた。入信は大変喜び、急いで親鸞聖人の禅室に行き、夢での告げをお伝えし、ご教化を請うと、親鸞聖人は弥陀の本願は末代無智の衆生をこそ助け救わんとする誓いであるから、疑う心無く弥陀のお助けは間違いないと一心に信じたてまつるほかに、別の子細はないと他力本願の念仏を御教化されると入信はたちまちに聖人の教えを理解し、感激の涙を流し親鸞聖人にお会いすることがなければ往生の一大事を遂げることはできなかったであろうと、弟子に列ねてくださるように願ったと記しています。


市指定有形文化財
聖徳太子立像 伝 親鸞聖人作
台山の光明

『信照山蓮台院寿命寺略縁起』では義繁が親鸞聖人に会ったのを建保五(1217)年稲田とし、義繁は聖人より入信と法名をさずかったとしています。『略縁起』は入信房が親鸞聖人を穴沢に招請したため、聖人は度々ご教化に通われたと伝えています。さらにその折の出来事として、ある夜親鸞聖人が西山の方を見ておられると一里ほど先に光が現れたため、聖人は入信房を連れ、光の方へ近づいていくと、大畑村の台山で光がいよいよ輝いていた。山に登ってみると土中より光明が照らしているので、そこを掘ってみると一寸八分の阿弥陀如来が出てきた。聖人は仏法有縁の尊い山であるからここに一宇を築こうと仰せられ、本堂を建立され、仏法を弘通され、土中よりの寿命無量の尊像を本尊としたため寺号を寿命寺と名づけらられたと伝えています。聖人が京都にお帰りになる時入信房に台山の禅房を付属し、入信房は建長四(1253)年この禅房で87歳で往生をとげた。第三世の信堯は穴沢より台山に寺基を移し法灯をつないでいると記しています。

慈眼山西照寺

寿命寺