幽霊済度の伝説"伝わる無量寿寺

         二十四輩第三番順信房開基のお寺

無量寿寺山門の石段無量寿寺本堂
二十四輩の第三番に挙げられる順信房信海は、二十四輩第一番の性信房を中心に形成された横曽根門徒また、二十四輩第二番真仏房を中心とする高田門徒と並び称される鹿島門徒と呼ばれる門徒集団を形成しました。
 信海直筆の書簡伝わる
現在、本願寺には『信海等連署状』と『信海書状』と呼ばれる信海直筆の書簡が伝えられいます。『信海等連署状』は弘安三(一二八〇)年親鸞聖人が御往生された十八年後の十一月十一日に「諸国の親鸞聖人の門弟たちが聖人ご命日のお逮夜の念仏のために銭を送ったが、御廟に仕える念仏衆が怠けてそれを行わずにいるので、今後もそのようであれば、他の僧を招いて念仏を勤める」と親鸞聖人の廟堂に出仕する念仏衆に、順信房が顕智房と光信房とともに強く申し入れた書簡です。
またもう一通は親鸞聖人が常陸の門弟たちへ後々即生房と今御前の母の生活の援助を依頼した御消息がありますが、順信房がその「即生房の葬儀の残金五百貫文を覚信尼公の長男覚恵に送る」という弘安五(一二八二)年十一月二十四日付けの手紙です。

無量寿寺鐘楼堂
この書簡に書かれる即生房は親鸞聖人の御子息ではないかとも言われています。その即生房を順信房は最後まで世話をされていたようです。無量寿寺境内には即生房の墓があります。
何れの書簡からも順信房が親鸞聖人の大谷の御廟を管理する親鸞聖人の娘覚信尼公の周辺と強く関わり、支えていたことが推察されます。
 鹿島神宮と順信房
また鳥栖の無量寿寺には順信房の系図『大中臣氏系図』が伝えられています。その系図は藤原鎌足から記され、常陸一宮であった鹿島神宮の宮司を勤めた大中臣氏の一族であった信親が出家し順信房となったと記されています。また『大谷遺跡録』では順信房は鹿島大社の神官であった片岡信親の子と伝えています。
無量寿寺のある鉾田町が発行した『拾遺古徳伝』(無量寿寺伝わる覚如聖人によって編纂された法然上人の伝記―国重要文化財―)の解説の中で今井正晴氏(筑波大学教授)は順信が鹿島神宮の大宮司であったかどうかは確定できないが、書簡の花押の風格から、「大宮司一族のしかるべき勢力を有した人物であったことが十分に考えられる」と記しておられます。

親鸞聖人御済度之図
 親鸞聖人のお誕生日
また江戸期に編纂された『大谷本願寺通記』には順信房が、親鸞聖人の足跡を記した『下野縁起』という書物が『高田絵伝撮要』に引用されていると記されています。その引文には親鸞聖人の誕生が四月朔日と記され、その資料に基づき、現在本願寺では親鸞聖人のお誕生をお祝いする降誕会法要が五月二十一日に勤められています。(旧暦の四月一日を明治に太陽暦を政府が採用した時に換算)
 幽霊済度の伝説
『無量寿寺略縁起』には無量寿寺は大同元(八〇六)年創建の三論宗の寺として創建されたと伝えています。『縁起』は続いて「その後禅宗となったが、その当時の在地領主村田刑部少輔平高時の妻が難産で亡くなると、我が子愛おしさのあまり幽霊となって姿をあらわしたため、住僧も逃げ無住となった。困った村人が親鸞聖人にすがったところ、聖人は村人に小石を集めるように告げ、集まった小石に三部経の文字を一文字ずつ書き、妻の塚に埋めたところ村人たちは妻が浄土へ往生する夢を見た。聖人はこの無量寿寺に三年御逗留された」と伝えています。

慈眼山西照寺

無量寿寺