慈眼山西照寺

仏名山常福寺
                      二十四輩第十八番入信房


常陸の豪族八田氏は善光寺信仰をもっていました。
二十四輩の第十八番入信房の俗名は八田知朝と伝えられており、八田氏の浄土信仰を受け継いでいたことが推察されます。
宇都宮氏と八田氏の阿弥陀信仰
茨城県つくば市大曽根にある仏名山玉川院常福寺は開基を二十四輩の第十八番に数えられる入信と伝えている。常福寺略縁起では開基入信の俗姓を八田七郎知朝と伝えています。知朝の四代前の八田氏の祖となる八田宗綱は宇都宮氏を起こした朝綱の子です。宇都宮朝綱は茨城県益子に阿弥陀堂を建立しており、入道し法号を重阿と称しました。重阿とは「重阿弥陀仏」の略号であり、阿弥陀信仰をもっていたことが伺えます。宇都宮朝綱の子宇都宮頼綱は出家し蓮生と称し、後に勝尾寺に法然上人を訪ね弟子と成っています。
宗綱の子八田知家は筑波山の南麓に位置する小田に館を構え、源頼朝の有力御家人として常陸の守護を任ぜられていました。八田知家は善光寺信仰をもち、新善光寺殿という法号をもっていました。
茨城県八郷町の善光寺は八田知家の創建と伝えられています。また八田知家の子知重も定善光寺殿という法号を称していました。
常福寺に伝わる系図では八田七郎知朝は八田知重の孫となっており、知朝にも一族の阿弥陀信仰が受け継がれていたことも想像されます。

親鸞聖人・入信上人連座像
親鸞聖人と八田知朝
『常福寺略縁起』では「八田民部郷朝範の息男八田七郎知朝は武勇の誉れがありましたが、(仏法の)宿縁が浅からずあり、そのため菩提の道(仏道を求める道)を志しました。ちょうどその時、宗祖親鸞聖人は稲田の禅房におられて、関東の各地をご教化されておられました。栖原大門のあたりを通られたり、知朝の領内の太子堂に参詣なされました。知朝は親鸞聖人の高名を聞き、お会いし出離の要道(悟りへの道)を問うたところ、親鸞聖人は専修念仏の奥深い教えを説き授けました。知朝はたちどころに聞いた教えに随喜し、お弟子となり、親鸞聖人に「入信」という法名を授けられました。入信はすぐに家屋を仏閣とし、常陸の国那珂郡八田に一宇を建立し『常福寺』と号しました。健保四(一二一六)年のことであります」と伝えています。
親鸞聖人のご消息には三通に入信の名が見えます。(親鸞聖人のお弟子に八田の入信と穴戸の入信との二人おられ、どちらかは確定できません)そのご消息から親鸞聖人が関東を離れ京都にお帰りになってから、親鸞聖人が関東に送られた息男の善鸞が、親鸞聖人に「真仏坊・性信坊・入信坊」のことを悪し様に伝えたことが判ります。後に真仏坊・性信坊が正しかったことが判り、親鸞聖人は善鸞を義絶することとなります。善鸞が真仏坊・性信坊とともに入信坊を挙げたということは入信が関東の教団の中で真仏や性信とならぶ大きな力を持っていたことが推察されます。


常福寺系図入信房座像
親鸞聖人を慕い京都へ
『常福寺略縁起』では「親鸞聖人がご帰洛のみぎりに、み後を慕い、京都へのぼられましたが、野比野の運善寺で往生されました」と伝えています。
運善寺には入信上人像が伝わっています。『二十四輩参拝図』には「入信房が親鸞聖人ご帰洛の折、当寺まで来られましたが、病になり、終わられたため、住職がその肖像を刻み寺に置いた」と記しています。
運善寺は瀬部七門徒の七箇寺の内の一箇寺です。『二十四輩参拝図会』によると瀬部七門徒の「瀬部」は「瀬踏部」を意味し、親鸞聖人が帰洛のおり、渡し場を渡られるおり、船を召されましたが瀬が多くまた増水していたため、七人の信徒が身命を顧みず、川の中に入って瀬踏みをし、無事に親鸞聖人をお渡したという伝承が記され、この伝承から瀬部七門徒と呼ばれています。