光明山無碍光院無量寿寺
                                            (富田の無量寿寺)

 二十四輩の第三番に挙げられる順信房信海の俗称は、鹿島神宮宮司であった片岡尾張守藤原信親の一子、信弘と伝えられています。
 「無量寿寺縁起」には親鸞聖人が稲田に住まわれていた頃、多くの人々が親鸞聖人に教えを乞い日々参っていた。その中に白髪の老人の熱心な姿があった。百日の間日々参った白髪の老人は「吾も御弟子の中に加えあられかし」と親鸞聖人に申し出た。親鸞聖人はこれを快く受け、法名を釈信海と付けられた。聖人の言葉に老人は大喜びで立ち去った。
 後日この老人は、鹿島明神の化身であったことが判明し、人々からこの話を聞いた宮司の片岡信親は驚いて戸帳を開いて見ると「信海」という法名が書かれてあった。「これは明神が稲田の聖人に帰依したからに違いない」とあらためて聖人の偉大さを感じ、稲田の草庵に聖人を訪ね「吾に一子あり、不肖の者ながら御弟子になしたまえしか、吾身は明神に仕え、一子は仏に仕えさせたまわん」と申し出た。これを聞いた親鸞聖人は弟子となることを許し、順信房と名乗り、鹿島・行方地方で教化に励んだと伝えています。「門呂交名帳」には順信房の直門弟として九名の人々が記されています。順信房の法脈を受けた人々は二十四輩第一番の性信房を中心に形成された横曽根門徒また、二十四輩第二番真仏房を中心とする高田門徒と並び称される鹿島門徒と呼ばれる門徒集団を形成しました。

信海直筆の書簡
 本願寺には『信海等速署状』と『信海書状』と呼ばれる信海直筆の書簡が伝えられています。『信海等速署状』は弘安三(一二八〇)年親鸞聖人が御往生された十八年後の十一月十一日に「諸国の親鸞聖人の門弟たちが聖人ご命日のお逮夜の念仏のために銭を送ったが、御廟に仕える念仏衆が怠けてそれを行わずにいるので、今後もそのようであれば、他の僧を招いて念仏を勤める」と親鸞聖人の廟堂に出仕する念仏衆に、順信房が顕智房と光信房とともに強く申し入れた書簡です。
 またもう一通は親鸞聖人が常陸の門弟たちへ後々即生房と今御前の母の生活の援助を依頼した御消息がありますが、順信房がその「即生房の葬儀の残金五百貫文を覚信尼公の長男覚恵に送る」という弘安五(三八二)年十一月二十四日付けの手紙です。
 順信房が親鸞聖人の廟堂の護持また親鸞聖人の親族に対して援助をされていたことが判ります。

塔の峰の草庵
 無量寿寺の伝承によると順信房の鳥栖無量寿寺を中心に活動していたようですが、七十歳の頃、現在無量寿寺のある富田より一キロ程の塔の峰の草庵に隠居したと伝えています。
 この塔の峰の草庵は巴川流域に位置し、寺の伝承によると稲田に居られた聖人は鹿島・行方地方をご教化される折り、度々鹿島神宮に参詣され、その往復に塔の峰(塔山)に草庵を建て休憩されたといいます。
 この草庵は「鳥栖の隠居所」とも「かくれ場所」とも呼ばれていたとそうですが、順信房の後、順信房の三男が継ぎその後代々護持され、これが富田無量寿寺の興りと伝えられています。
 富田無量寿寺はその後二回の火災や台風による災を受け、慶長十年(一六〇五)に現在の寺地に移転して現在に至っています。

慈眼山西照寺

富田の無量寿寺