慈眼山西照寺

長命寺

極楽山 聴衆院 長命寺

二十四輩 第7番 西念房

 長命寺は二十四輩の第七番に数えられる西念坊の開基と伝えられています。

野田の地には聖徳太子が御幸したという伝承があり、極楽山聴衆院聖徳寺という天台宗の寺があったといいます。平安末期の作と云われる長命寺の阿弥陀如来坐像は県指定有形文化財に指定されています。
信濃の豪族井上氏
長命寺の伝承では開基西念坊の俗姓は八幡太郎(源)義家の曾孫で信濃国下井郡井上の井上満実の子、三郎貞親と伝えています。
西念房の出と伝えられる井上氏は平安時代の末に信濃国高井郡井上を本拠地とした武士です。長命寺の伝承で西念房の父と伝えられる満実は戸隠山別当をつとめ信濃国高井郡井上に館を設け井上氏を名乗っています。
 親鸞聖人が関東でのご教化の拠点とされた稲田のご草庵を、親鸞聖人のご帰洛後任されと伝えられる善性房も勝願寺の伝承では井上氏の出と伝えています。
 親鸞聖人の越後での弟子
井上貞親は父満実が合戦で亡くなったことで世の無常を感じ、承元の法難によって越後の国府に流罪となっていた親鸞聖人を訪ねて帰依し、西念と法名を賜ったと伝えられています。
 親鸞聖人は建歴元年(1211)に赦免を受けますが、その翌年には法然聖人がご往生になったため京には帰らず、暫く越後に留まったのち関東に移られたと考えられています。
 親鸞聖人が関東にご教化のために移られるに際し、西念坊も親鸞聖人に随つたと伝えられています。
  野田の神主高梨氏との縁
長命寺の伝承では関東に移られた親鸞聖人は西念の妹が野田の神主 高梨氏に嫁いでいた関係で、西念と一緒にこの地を訪れ、西念坊に「西念寺」を建立させたといいます。
 百七歳にての往生
正応元年(1288)覚如上人が東国の親鸞聖人の聖跡をご巡回なされたとき、百七歳になっていた西念は覚如上人にお会いし、聖人ご在世の折のご苦労のあり様を逐一申し上げたといいます。覚如上人はこの折に西念坊の長命であることから長命寺という寺号を与えられたと伝えています。
 翌正応2年(1289)西念は寿像に向かい端座合掌して「観彼如来本願力乃至真実功徳大宝海」と称えて百八歳にて往生を遂げといいます。
後に長命寺は、建武の兵乱で焼けてしまい、当時の住職は西念の出身地である信州に避難したため

長命寺境内には1801年に再建された立派な彫刻が施された太子堂太子堂があります。この太子堂には親鸞聖人の手によると云われる聖徳太子十六歳の時の孝養太子像が安置されて多くの人の信仰を集めています。
太子堂は毎年四月十五日にご開帳されます。また十月には野田の大工や左官などの職人による太子講が行われています。野田は江戸期に醤油の産地として栄えますが、この太子堂には野田だけでなく江戸などからの奉納品もあります。太子堂に納められている「太子堂句額」は、野田地方最古の俳諧資料として平成2年に市指定文化財に登録されています  

千葉県野田市上花輪1358