一谷山妙安寺(いっこくさんみよう あんじ)

               二十四輩第六番       成然

 一ノ谷の妙安寺に伝わる「一ノ谷妙安寺畧縁起」では成然の俗称は藤原氏の一族中村頼国という公家であり、九条家の一門であると伝えています。
  同じく三村にある妙安寺の記録では成然の俗称を藤原氏九条中村幸實と異なる名を伝えていますが、やはり九条家の一門としています。親鸞聖人も藤原氏の一門である日野氏の出で、親鸞聖人がご出家なさった時の師は後に天台座主にもなる慈円和尚でありました。 慈円和尚は九条家の出で、兄は関白九条兼実公です。また三村の妙安寺の記録は成然の父は中務少輔良賢、母は源義親の娘で、祖師聖人の御母君吉光女の妹で、親鸞聖人と成然は従兄弟だと伝えています。

 「一ノ谷妙安寺畧縁起」は頼国は関東へ下り、下総国猿島郡境に着き、境長五郎の館を宿とし、しばらく滞在した。この頃、親鸞聖人は越後国より常陸国に移り、笠間の郷稲田におられ、盛んにご教化されていた。頼国はこれを伝え聞き、境より稲田へ行き聖人と対面し、幾久しくお互いの身の上を語り合った。聖人が折々にご教化をされると、頼国はお弟子となり、法号を成然と賜ったと伝えています。
  「一ノ谷妙安寺畧縁起」は成然が関東に下った理由を伝えていませんが、一ノ谷妙安寺の伝承や三村の妙安寺の記録では配流に処せられたと伝えられていますので、面識のあった親鸞聖人を稲田に訪ね、ともに配所における生活を語り合われたとも考えられます。
  「一ノ谷妙安寺畧縁起」は成然は境の長五郎の館に三年滞在し、自らの刀を長五郎に与え、中村という姓を与えた。また境の地が鎌倉街道が通り賑やかであったために、庵室をむすび人々を教化したと伝えています。
  常陸筑波郡には村田荘という九条家の荘園があり、その荘の南は下総国境までという記録があり、近藤義雄氏は「成然と親鸞」の中でそのことを指摘し「一ノ谷はその境町の字名であり、九条家の荘園村田荘は一ノ谷までも含めた広範囲の荘園であったといえよう。九条家一門と目された成然の配流地は親鸞の場合と同様に九条家の荘園と係わりがあったと考えられる」と推論しています。
  「一ノ谷妙安寺畧縁起」は親鸞聖人が帰洛の折りに、成然に自らの像を彫刻し附属され、成然は御影堂建立のために常陸・下総両国をめぐり、一ノ谷に一宇を建立して御木像を安置し、妙安寺と号したと伝え、その御真影が御本山(東本願寺)へ遷座されたことを伝えています。

 親鸞聖人ご往生の後、東山大谷の地に墓が建てられました。その十年後墓は親鸞聖人の娘覚信尼公の夫小野宮禅念の屋敷に移され、門弟たちの協力で墓を覆う廟堂が建てられました。屋敷は禅念より覚信尼公へ相続され、後に覚信尼公は廟堂、敷地ともに関東の門弟へ寄進されました。寄進を告げる寄進状は前後三通出されていますが、その一通は「さしまのじょうねんぼう」宛です。
  この常念は猿島を中心に活動した成然だと推定され、成然が関東のお弟子の間で重要な位置を占めていたことが想像されます

慈眼山西照寺

妙安寺