宝池山浄華院蓮生寺
                       二十四輩第八番證性房

蓮生寺の寺伝では證性房の俗姓を畠山重秀とし、畠山重忠の第二子と伝えています。寺伝には父重忠は度重なる合戦に出陣したが、常に阿弥陀如来の軸を肌身はなさず鎧の袖に持ち、戦にて数々の高名をあげた。しかし天命尽きて重忠は武蔵野の露と消え、重秀は父重忠の形見として阿弥陀如来の軸を肌身はなさず持ち、明恵上人の門を叩き、法名を恵空と号したと伝えています。
 畠山氏
畠山氏は関東八平氏に数えられた秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を領しました。證性房の父と伝えられる畠山重忠は治承4(1180)年8月の源頼朝の平家追討の挙兵に際し、平家方として頼朝討伐に加わっています。しかし10月には頼朝が安房で体勢を立て直し関東の武士を糾合し鎌倉に進攻するにおよび、重忠は頼朝の陣に帰参し、鎌倉への先陣を任されています。
重忠は鎌倉幕府の御家人として、その後木曾義仲の追討、平家の追討などに活躍しています。
しかし元久2(1205)年に重忠の子重保が幕府の政所別当として権力を握っていた北条時政の妻牧方の娘婿であった平賀朝雅と口論となり、これが原因で謀反の嫌疑をかけられ、重忠、重保父子は討ち取られています。
「吾妻鏡」にはこの折に二十三歳であった重秀や郎党は自害したと伝えていますが、「大谷遺跡録」では自害したと見せかけて、ひそかに明恵上人を訪ねて、明恵上人より華厳の法文を聴き、歓喜してただちに剃髪し、名を恵空と賜ったと記しています。
さらに「大谷遺跡録」には恵空は承元四年に栂尾を出て、関東に下り、そこで親鸞聖人が常陸国小島にて、他力真宗を弘通されているのを聞き、建保二年親鸞聖人を訪ね、専修念仏の法門を受けお弟子となり法名を證性と改めたことを記しています。
寺伝では後に、下野国塩谷郡犬飼の地(栃木県)に草庵を結んだと伝えています。
願入寺に伝わる「二十四輩名位」にも「性證御房 下野戌飼高柳」とあり證性房が下野国塩谷郡犬飼を中心に活動されていたことが判ります。
下野国塩谷荘は法然聖人のお弟子となり信生という法号をもつ鎌倉幕府の御家人塩谷朝業の拠点です。塩谷朝業の兄、宇都宮頼綱も法然の弟子となり蓮生という法号を名のっています。また親鸞聖人がご草庵を結ばれた稲田は笠間郡にあり、笠間にはこの当時、塩谷朝業が進出し、朝業の息子の笠間時朝が領有しています。
寺伝などでは證性房と塩谷氏との繋がりは指摘されていませんが、同じ法然門下の親鸞聖人のお弟子となった證性房となんらかの関連があったかもしれません。

慈眼山西照寺

蓮生寺