額光山信楽院善徳寺
                    二十四輩第十二番 善念房 



常陸奥郡と佐竹氏
「額光山信楽院善徳寺縁起」は善念房を佐竹氏の祖となった佐竹昌義のひ孫にあたる、常陸国久慈郡の内田の領主であった南酒出六郎義茂と伝えています。久慈郡が位置する那珂川以北の常陸国は東西の久慈郡を含めて七郡があり、当時奥七郡と呼ばれていました。親鸞聖人のご消息に出てくる奥郡はこの奥七郡を指し、奥七郡に多くの親鸞聖人の門弟がいたことが分かります。佐竹昌義は常陸国久慈郡佐竹郷の郷司職を得てこの地に土着し、佐竹冠者と名乗りました。昌義は諸系図で佐竹氏の初代とされています。昌義の母は常陸平氏大掾氏の一族で水戸地方を領有していた馬場清幹の娘で、自らは奥州藤原清衡の娘を妻としました。常陸南部の大掾氏と北部に隣接する奥州藤原氏との姻戚関係を結ぶことによって、平安末には昌義は常陸奥七郡の郡や郷の司職を掌握し、この地域の在地領主として勢力を蓄えていきました。

開基善念坊木像
佐竹昌義は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫にあたり源頼朝と同じく清和源氏の系譜を引く一族ではありましたが、中央の平氏政権と結ぶことによって、任官を受け常陸国在庁官人となっています。
佐竹氏は源頼朝の平氏追討の挙兵に際し、昌義の子佐竹隆義(義茂の祖父)が平氏の家人として上洛中であったこともあり、源頼朝の平氏追討の挙兵に距離を置きました。頼朝は平氏の追討軍を富士川で破った後に、京に攻め上らずに軍を常陸に進め佐竹氏を攻めました。佐竹秀義(佐竹隆義の子・義茂の父)は金砂山城に篭城しましたが、一族の寝返りによって落城し、秀義らは奥州花園山に逃れています。
御家人としての義茂
義茂(善念房)の父秀義は源頼朝の奥州藤原氏征伐に際し、討伐に向かう頼朝に馳せ参じ、宇都宮にて帰順を許されています。秀義は奥州征伐に軍功を挙げ、鎌倉幕府の御家人となっています。
御家人として取り上げられた佐竹氏は本領の久慈郡佐竹郷は安堵されたようですが、かつて佐竹領であった奥七郡は軍功に応じ諸氏に分配されています。
後鳥羽上皇が幕府追討の院宣を出した承久の乱では、南酒出義茂は北条泰時とともに京に攻め上り、宇治川の合戦において敵将二人を討ち取ったことが「吾妻鏡」に記されています。
南酒出義茂も父佐竹秀義とともに幕府の御家人として活躍していたことが分かります。

聖徳太子木像
南酒出義茂と親鸞聖人
「額光山信楽院善徳寺縁起」は南酒出義茂は、仏門に入り笠間郡稲田吹雪谷において親鸞聖人の弟子となり法名を善念と称したと記し、建保元(1213)年南酒出に一宇を建立したと伝えています。
「吾妻鏡」の承久の乱での従軍の記録は承久三(1221)年であるため、「美和村史」は「南酒出義茂が建保年中に親鸞に出会ってその信仰に惹かれたとしても、すぐに出家したというものではあるまい。俗人として信仰を保ち続け、後に善徳寺と称される堂あるいは道場を、南酒出の領地内に建てたということであろう」と推論しています。
また「美和村史」には「『大祖聖人口決交名記』(那珂町阿弥陀寺蔵)には、善念の弟子として、随意・浄音・慈海・証明・善性・念成・聞念の七人があげられている。善念の影響力の大きさも知ることができる」と善念房の教化力の大きさを記しています。

慈眼山西照寺

善徳寺