二十四輩第十九番 明法房開基上宮寺

親鸞聖人は建暦元(一二一一)年三十九歳で流罪を赦免されてから、京都へは戻らずしばらく越後に止まった後、健保二(一二一四)年に関東へ移られ約二十年に及び関東の人々に専修念仏のみ教えをご教化されました。
 『御伝鈔』に記された聖人のご教化
親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人の編纂された聖人の伝記『御伝鈔』の下巻の第二段には「越後から常陸に移られ、笠間郡稲田郷にお住まいになりました。ひっそりとお住まいになっておられても僧侶俗人を問わずに人が訪ね、庵の戸を閉じていても身分に関係なく多くの人々が溢れるように集まった」と記しておられます。このような関東での親鸞聖人の存在に対し快く思わない人々もいたようです。続く『御伝鈔』の下巻の第三段には親鸞聖人の命を狙った山伏弁円を教化されたエピソードが記されています。弁円は上宮寺の縁起によると幼くして聖護院の宮の門弟となり、修験道において弁円の名は遠近に届いていたといいます。 常陸国金砂の城主佐竹末賢はその徳を慕い、久慈西の郡塔の尾楢原谷に護摩堂を建て、弁円を招き祈祷所とし、弁円は常陸国の修験者の大先達として、領内の尊崇を集めたと同縁起は伝えています。そのような弁円の活動する前に親鸞聖人が現れたのでした。

 弁円の懺悔
『御伝鈔』の下巻三段では「聖人は板敷山を常々通られていたので、その山で山伏は度々待ち伏せしていましたが、その思いを遂げることができませんでした。不思議に思った山伏は聖人に会うため禅室に行くと、親鸞聖人はなんのためらいもなく出てこられ、その尊顔に接した山伏の危害を加えようと思っていた心がたちまちに消え、それどころか後悔の涙が抑えられませんでした。しばらくして山伏は今までの抱いていた思いをありのままに述べましたが、聖人は全く驚く気配もありません。山伏はその場で聖人に危害を加えるために持っていた弓を切り、刀を捨て、頭巾を取り、柿渋で染めた衣を改め、仏教(専修念仏の教え)に帰依し、往生の素懐を遂げました。不思議なことです。これが明法坊です。これは聖人が付けた法名です」と記しています。上宮寺の縁起によると弁円が親鸞聖人に帰依したのは健保二年で弁円三十五歳の時であったと記しています。
上宮寺には弁円が聖人を狙った弓と修験時代に用いたホラ貝が所蔵されています。弓は弁円が自らの害心を懺悔した時に真二つに折られたものです。また弁円の用いた刀も上宮寺に伝来していましたが、第二次大戦の折りに供出してしまったということです。

弁円の墓
 板敷山
弁円が親鸞聖人を狙った板敷山は稲田の草庵の南に位置し、稲田から常陸国の国府(今の石岡市)へまた霞ヶ浦に出て鹿島神宮へ行くには必ず通る道でした。
江戸期に高田派の五天良空が編纂した親鸞聖人の伝記『親鸞聖人正統伝』には親鸞聖人四十九歳の秋の事としています。また添え書きとして、「『五代記』『下野記』等には弁円が弓と刀を身につけ庵室を訪ねてきたので弟子達は驚いてくせ者が乱入したと聖人に申し上げると、そういうな。今日は最高の弟子が出来ると待っていたところだと言われた」と記しています。

 明法房弁円の往生
また建長四(一二五二)年八十歳の時のご消息(手紙)に関東から京へ親鸞聖人を訪ねた明教房というお弟子より明法房(弁円)が往生の素懐を遂げられたことを聞き、かえすがえすもうれしいことだと感慨を語られています。また別のご消息では「明法房が往生の素懐を遂げられたことを聞きながら、明法房ののこした行跡を粗略にするような人々はその同朋ではない」とまで述べておられます。親鸞聖人が明法房のことを大変信頼されていたことが伺えます。
弁円の弓とホラ貝

慈眼山西照寺

上宮寺