西念寺
                    二十四輩第七番西念房


西念房は、二十四輩参拝絵図によると正応三(一二九〇)年百七歳の時に関東の親鸞聖人の旧跡を廻られた聖人の曾孫にあたる覚如上人と会っています。親鸞聖人ご往生の二十八年後のことでありました。西念房は覚如上人に親鸞聖人より直接に聴いたみ教えを滞りなく話し、その翌年西念房は百八歳で念仏を称えつつ往生したと言います。
西念寺の縁起によると、西念房は八幡太郎(源)義家の子孫で信濃国高井郡井上城主井上盛長の子、三郎貞親という武士であったと伝えています。貞親は文治年間に父盛長が兵乱によって討ち死にした折りに、無常を観じ、仏道を志しました。貞親は越後の五智国分寺に参籠し、夢告を得て同地にご流罪に処せられていた親鸞聖人の弟子となり、西念という名を聖人より賜ったと言います。それ以降西念房は、聖人の関東ご教化に従って関東に移りました。

太子堂


太子堂
西念房は武蔵国野田に房舎を建立し親鸞聖人より譲られた聖徳太子像を安置し太子堂と名付け、親鸞聖人より受け伝えられた専修念仏のみ教えを人々に伝え、門前市をなすほどであったと言います。
親鸞聖人が二十年に渡る関東ご教化の後、京都へ帰洛される折りに西念房は聖人に付き従いたいと願いますが、聖人は西念房に関東に残り、人々に弥陀の本願をひろく伝えるように諭し、自らの寿像と親鸞聖人と西念房、妙蓮尼、信証房、覚念房の五名連座の御影を図画し西念に与えました。西念房は野田の里で、聖人の寿像を敬いつつ、百八歳にて往生の素懐を遂げるまで益々教化に努めたと言います。
辺田の西念寺は西念房が太子堂を建立したと思われる現在の千葉県野田市と利根川を挟んで北側に位置する現在の茨城県岩井市にあります。


阿弥陀如来座像
聖徳寺と信証

西念寺縁起によりますと、西念寺は親鸞聖人が関東へ来られた当時聖徳太子の建立と伝えられた天台宗の寺院で極楽山聴衆院聖徳寺と称していたと言います。当寺の住持、圓盛は俗称を井上四郎義繁と言い西念房の弟でありました。圓盛は兄西念房の縁で当時稲田に房舎を構えておられた親鸞聖人を訪ね、他力念仏のみ教えを聴聞し、これこそが末世に相応した教えであると随喜し、親鸞聖人の弟子となり、信証という法名を賜りました。それ以来聖徳寺は真宗の道場となり栄えたと伝えています。
一方野田の西念寺は西念房の孫西祐の時、建武の兵乱が起こり兵火に焼かれ、他所に移ることになった際に、親鸞聖人が西念房に与えた由緒ある宝物を聖徳寺に納めました。
当時聖徳寺には七堂伽藍があったと伝えられる程栄えていたようです。
江戸初期に東本願寺の琢如上人が野田の西念寺が他所に移っていることを惜しみ、聖徳寺が西念房に列なる由緒があるため、聖徳寺を西念寺と改め野田西念房の旧跡と定めました。二十四輩参拝図絵には江戸期の辺田の西念寺には九間四面の本堂があったと伝えています。
現在西念寺には茨城県文化財に指定されている平安時代作の阿弥陀如来像があり、また境内の太子堂には親鸞聖人作と伝えられている聖徳太子像が安置されています。

慈眼山西照寺

西念寺