粟野山無量光院慈願寺
二十四輩第十三番 信願房
源頼朝と佐竹氏
『粟野山慈願寺略縁起』では信願房は初めて佐竹氏を名乗った佐竹昌義の孫にあたる稲木義清と伝えています。佐竹氏は平安末には婚姻関係にあった常陸平氏と結び常陸の奥七郡を中心に下総にも所領を持つ在地領主として勢力をもっていました。佐竹昌義は源頼朝と同じ八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫にあたり清和源氏の系譜を引く一族ではありましたが、常陸平氏を通じ平氏政権と結ぶことによって常陸に勢力を伸ばし、また昌義の子佐竹隆義(稲木義清の父)が平氏の家人として上洛中であったこともあり、源頼朝の平氏追討の挙兵に距離を置き参陣しませんでした。頼朝は平氏の追討軍を富士川で破った後に、京に攻め上らずに軍を常陸に進め佐竹氏を攻めました。佐竹秀義(佐竹隆義の子・稲木義清の兄)は金砂山城に篭城しましたが、一族の寝返りによって落城し、秀義らは奥州花園山に逃れていきました。この戦いは金砂合戦と呼ばれています。
後に秀義は源頼朝の奥州藤原氏征伐に際し、討伐に向かう頼朝に馳せ参じ、宇都宮にて帰順を許されています。秀義は奥州征伐に軍功を挙げ、鎌倉幕府の御家人となっています。
佐竹一族であった稲木義清の金砂合戦の中での動静ははっきりしませんが、佐竹一族としてなんらかの軋轢を受けたことは推察されます。
「粟野山慈願寺略縁起」は稲木義清は遁世し、始めは慈清と名乗ったと伝えてます。
「慈願寺略縁起」は後に稲田に親鸞聖人を訪ね、弟子となり信願房定信と改めたと、義清が親鸞聖人の弟子となったいきさつを書いています。
聖徳太子二歳御像
稲木義清と佐竹義繁
二十四輩第十六番に数えられる入信房は、寿命寺に伝わる系図によれば佐竹義繁が親鸞聖人の弟子となったと伝えています。佐竹義繁の父佐竹秀義は義清の兄にあたりますので、入信房は信願房の甥になります。『信照山蓮台院寿命寺略縁起』では入信が親鸞聖人に会ったのを建保五(1217)年稲田としています。この伝承によれば親鸞聖人が関東に入られてから三年目にあたります。いずれにせよ叔父と甥がともに親鸞聖人の弟子となり、ともに二十四輩に数えられていることは興味深いことです。
「慈願寺略縁起」は親鸞聖人の弟子となった信願房は天福元(1233)年下野国阿蘇郡粟野鹿崎(現栃木県鹿沼市)に一宇の精舎を建立し人々にみ教えを伝え、正嘉元(1257)年に入寂されたと伝えています。
阿弥陀如来木像
(伝親鸞聖人御自作)
慈願寺と大山
「慈願寺略縁起」は慈願寺第三代の慈慶の時に京都の親鸞聖人の曾孫にあたり聖人墓所の留守職をされ、本願寺第三代に数えられる覚如上人が、東国を巡回されたときに慈願寺という寺号と、宗祐という法名を賜ったと伝えています。また慈慶は一族の縁によって佐竹義胤・行胤の帰依を受け度々常陸に訪れ、常陸西大山郷に住み法灯を伝えたと記しています。大山の地(茨城県桂村)には親鸞聖人が建保四(1216)年に庵を結んだと伝承されている大山の草庵がありました。ここに親鸞聖人は常陸北部の奥郡の布教のために七年間滞在されたと伝えられています。この当時大山のあった常陸国中西郡塩籠荘は鹿島神領であり桂村には天応元(781)年創建と伝えられる鹿島神社が現存します。後に塩籠荘は佐竹行胤の子義篤によって欠所地として押領されたとの当時の記録があります。