新堤山宗智院弘徳寺
                      二十四輩 第5番 信楽房 

弘徳寺は二十四輩第五番に数えられる信楽房の開基とつたえられています。

弘徳寺の縁起には信楽房の俗姓を相馬三郎義清と伝え、義清は親鸞聖人が小島の草庵におられたとき、守り本尊の薬師如来の夢告により親鸞聖人の弟子となり信楽房という法名を賜り、自宅を念仏道場としたと伝えています。
千葉常胤と源頼朝
弘徳寺の伝えるところでは信楽坊は相馬家の祖となる相馬二郎師常の子としています。
師常の父師常は下総の相馬御厨の領主として相馬家の祖となった相馬師常です。師常の父は桓武平氏の流れを汲む千葉常胤です。当時千葉氏は下総一帯に在地領主として勢力を蓄えていました。千葉氏は源頼朝を助け鎌倉幕府の成立に大きな貢献をしています。
 源頼朝は治承四(1180)年三島大社祭礼の日に配流先の伊豆にて伊豆国目代山木兼隆を討ち取り、相模国に向いますが、大庭影親に石橋山で破れ数人で山中を逃れ、三浦より海路より、安房にのがれました。安房に逃れた頼朝は地元の領主であった上総広常と千葉常胤に加勢を求めます。上総広常はすぐには動きませんでしたが、千葉常胤はすぐに下総の目代を襲い館に火をかけ、三百余騎を率い下総国府にて頼朝に謁します。頼朝は遅れて頼朝の陣に参じた上総広常の兵二万騎とともに武蔵を通り、相模の鎌倉に向います。ことの推移を伺っていた関東の武士たちを糾合し、頼朝は鎌倉に入り、さらに平維盛を総大将とする平氏の追討軍を富士川にて撃破します。追撃し上京しようとした頼朝を諌めたのも千葉常胤・上総広常らでした。
 千葉常胤は寿永三(1184)年には頼朝の弟源範頼に従い木曾義仲を討ち、さらに西国における平氏追討に軍功を挙げ頼朝から下総の守護に任ぜられています。後に常胤は頼朝の奥州藤原氏の討伐にも従っており、頼朝からは父の礼をもって遇されたといいます。信楽房の父相馬師常も父常胤とともに奥州征伐に従い、その功によって陸奥国行方郡を頼朝より賜っています。
相馬師常と法然聖人
相馬師常は父常胤が亡くなった後に出家し法然聖人に帰依し弟子となっています。親鸞聖人と信楽房の父は法然聖人門下において兄弟弟子であったことになります。
師常は『吾妻鑑』に元久二(1205)年十一月十五日六十七歳にて寂し「時しも端座合掌して動揺せず、決定往生敢えて疑いなし。是れ念仏の行者也。結縁と称し、道俗挙げて是を集拝す云々」との記述があり、鎌倉の人々は師常の往生に結縁しようと彼の館に集まったといいます。信楽坊が稲田の禅坊に親鸞聖人を訪ね弟子となった背景には父の専修念仏の信仰があったことが推察されます。
聖人お手植えの木?子
弘徳寺の縁起は貞永元年(1232)秋に親鸞聖人は新堤にお越しになった折りに、都へ帰る旨を伝え、信楽房に関東に残り念仏を弘通するように告げ、御真影を付属されたと伝えています。
弘徳寺聖人はその時お持ちになっていた珠数の玉を裂き、境内に蒔いたその玉より芽が生じたと伝えられる木?子が境内にあります。その木?子の前に建てられた碑には
 なきあとの かたみにうえし木?子 弥陀にかしづく 便りともなり と刻まれています。

慈眼山西照寺

弘徳寺