親縁山弘徳寺
              二十四輩第五番信楽房

厚木市飯山の弘徳寺の開基は二十四輩第五番信楽房です。信楽坊は『弘徳寺略縁起』では相馬太郎義清と伝えています。

『弘徳寺略縁起』には相馬太郎義清は親鸞聖人が常陸国稲田の禅坊におられたとき、親鸞聖人を慕って弟子となり信楽房という法名を賜り、自宅を念仏道場とし、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。




千葉常胤と源頼朝

弘徳寺の伝えるところでは信楽坊は相馬家の祖となる相馬師常の子としています。師常の父は坂東八平氏の流れを汲む千葉常胤で、平氏追討の挙兵をするも石橋山に破れ下総に逃れた源頼朝に内応し、平氏目代を斬り、300騎をもって下総国府にて頼朝に謁しています。寿永三(1184)年には頼朝の弟源範頼に従い木曾義仲を討ち、さらに西国における平氏追討に軍功を挙げ頼朝から下総の守護に任ぜられています。後に常胤は頼朝の奥州藤原氏の討伐にも従っており、頼朝からは父の礼をもって遇されたといいます。信楽坊の父相馬師常も父常胤とともに奥州征伐に従い、その功によって陸奥国行方郡を頼朝より賜っています。



相馬師常と法然聖人

相馬師常は父常胤が亡くなった後に出家し法然聖人に帰依し弟子となっています。親鸞聖人と信楽房の父は法然聖人門下において兄弟弟子であったことになります。
師常は元久元(1205)年11月15日に鎌倉の屋敷にて端座合掌のうちに念仏しながら往生したと伝えられ、鎌倉の人々は師常の往生に結縁しようと彼の館に集まったといいます。信楽坊が稲田の禅坊に親鸞聖人を訪ね弟子となった背景には父の専修念仏の信仰があったことが伺われます。
弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。

善鸞大徳の墓所

善鸞大徳の墓所

『新編相模風土記稿』も弘徳寺を親鸞聖人駐錫の旧跡と記しています。『新編相模風土記稿』はさらにこの親鸞聖人の旧跡に親鸞聖人の息男善鸞が草庵を結び、親縁山心光院と号し、弟子の浄念とともに住み、善鸞大徳は臨終に及んで、この草庵を浄念に付属したと記し、また浄念滅後、下総新堤村の弘徳寺の住僧が兼帯したと記しています。弘徳寺では開山を信楽とし2代を浄念としています。
弘徳寺には善鸞大徳の御墓所があります。弘徳寺の本堂の南に小高い丘があり、ここが善鸞大徳が埋葬された墓所と伝えられています。親鸞聖人の息男善鸞大徳は聖人の晩年関東に派遣されますが、やがて父の教えとして異説を説き、これが、親鸞聖人の知るところとなり、義絶されています。
『慕帰絵詞』と『最須敬重絵詞』には親鸞聖人の曾孫覚如上人が関東で親鸞聖人の名号を首に掛けた善鸞大徳と出会われたことが記されています。勘当された後も善鸞大徳は関東を経回されていたようですが、弘徳寺の所伝では、晩年に近づきここに御滞留され、弘安元(1278)年3月22日に御歳65歳にしてお亡くなりになったと伝えています。
弘徳寺本堂
善鸞大徳木像

慈眼山西照寺

弘徳寺