二十四輩第十九番 明法房開基
楢原山法徳院法専寺
ならはらさんほうとくいんほうせんじ

平清盛の孫平能宗
法専寺の寺伝では明法房の俗姓を平能宗と伝えています。平能宗は平宗盛の次男で、平清盛の孫になります。宗盛は清盛没後家督を継いで平氏を率いますが、この時には既に後白河法皇の皇子以仁王の平家追討の宣旨に呼応し、源氏が各地で蜂起し、公卿や機内の寺社の離反が起こっていました。やがて木曾義仲に京を追われた宗盛は安徳天皇とともに平氏を率いて西国での再起を図り、一旦は義仲の軍を破りますが、頼朝から派遣された義経の大軍に破れついに壇の浦で決定的な敗北をします。宗盛は壇ノ浦で捕らえられ鎌倉に送られ、京に送還される途中に義経によって斬首されてしまいます。『吾妻鏡』では能宗は父宗盛とともに捕らえられ、京の六条河原で斬首されたと記されています。

聖護院で修験道を修す
 法専寺の寺伝では能宗は平氏滅亡後、十八歳にして聖護院宮法親王を訪ね、清円と号し修験道を修し、後に豊前僧都播磨公弁円と名を改め、その名は全国にとどろくようになったと伝えています。 また建暦二年(1212)には佐竹秀義は、久慈郡塔之尾村楢原に祈願所として建立した法徳院に弁円を招き、寺領五百石を与えたと伝え、当時法徳院は三十五坊と門弟百余名を持つほど栄えていたといいます。

山伏弁円と板敷山
 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が編纂された親鸞聖人のご伝記、『御伝鈔』の下巻の第二段には「親鸞聖人は、越後国(新潟県)から関東の常陸国(茨城県)へ移り、笠間郡稲田郡(いまの笠間市稲田町)に隠居された。すると、ひっそりと庵室の戸も閉じていたが、僧尼や一般在家の人びとで、門前はあふれた」と記されています。このような常陸での親鸞聖人のご教化に対し快く思わない人々がいました。続く『御伝鈔』の下巻の第三段には親鸞聖人の命を狙った山伏弁円を教化されたエピソードとして「一人の僧が、聖人のご教化が弘まっていくのを快く思わず、ついに聖人を襲おうと狙っていました。聖人が板敷山という深い山を常々通られていたので、その山で山伏は度々待ち伏せをしますが、その思いを遂げることができませんでした。不思議に思った山伏は聖人に会うため禅室に行くと、親鸞聖人はなんのためらいもなく出てこられました。その尊顔に接して山伏の危害を加えようと思っていた心がたちまちに消え、それどころか後悔の涙が抑えられませんでした。山伏は今までの抱いていた思いをありのままに述べましたが、聖人は全く驚く気配もありません。山伏はその場で聖人に危害を加えるために持っていた弓を切り、刀を捨て、頭巾を取り、柿渋で染めた衣を改め、仏教(専修念仏の教え)に帰依しつつ、往生の素懐を遂げました。不思議なことです。これが明法坊です。これは親鸞聖人が付けた法名です」と記しています。
 江戸期に高田派の五天良空が編纂した親鸞聖人の伝記『親鸞聖人正統伝』には親鸞聖人四十九歳の秋の事としています。また添え書きとして、「『五代記』『下野記』等には弁円が弓と刀を身につけ庵室を訪ねてきたので弟子達は驚いてくせ者が乱入したと聖人に申し上げると、そういうな。今日は最高の弟子が出来ると待っていたところだと言われた」と記しています。

明法房弁円の往生
 また建長四年(1252)聖人八十歳の時のご消息(手紙)に関東から京へ親鸞聖人を訪ねた明教房というお弟子より明法房(弁円)が往生の素懐を遂げられたことを聞き、「かえすがえすもうれしいことだ」と感慨を語られています。また別のご消息では「明法房が往生の素懐を遂げられたことを聞きながら、明法房ののこした行跡を粗略にするような人々はその同朋ではない」とまで述べておられます。親鸞聖人が明法房のことを大変信頼されていたことが伺えます。法専寺の寺伝では明法房の往生を建長三年(1251)年十月十三日七十二歳と伝え、法専寺の裏には明法房が埋葬された塚があり、「明法房(山伏弁円)の塚」という常陸大宮市の史跡の説明板が建てられています

慈眼山西照寺

法徳院法専寺