高田専修寺
                                    善光寺様式一光三尊仏と親鸞聖人
                                    二十四輩第二番真仏房


専修寺如来堂                                                            親鸞聖人御廟

こころざし
二十四輩の第二に挙げられる真仏は『大谷遺跡録』には「下野国司大内国春の嫡子椎尾弥三郎春時が嘉禄元(一二二五)年に親鸞聖人の弟子となった」と記しています。親鸞聖人の弟子を記録した『門侶交名牒』には真仏の門流として二十人近くの人々の名が記されています。真仏の門弟は高田門徒と呼ばれ関東の親鸞聖人のお弟子方の中で中心的な位地を占めていました。親鸞聖人のご消息(お手紙)の中に、関東で活動していた真仏が京都にお帰りになった親鸞聖人に「こころざし」を送金したことに対するお礼の言葉が記されています。親鸞聖人は帰洛後こうした関東の門弟の送金によって主に生活していたといわれています。聖人はご消息の中でこれらの送金に対して丁寧に感謝の言葉を記しておられますが、教忍御坊の二百文、覚信坊の三百文、慈信坊の五貫文などの送金が分かります。真仏宛と言われるご消息には二十貫文の送金があったことが記されています。真仏を中心とする高田門徒が多くの人々に広がりを持ち、相当の財力があったことが想像されます。また真仏は娘婿の顕智とともに度々京都の親鸞聖人の下へ上洛しました。真仏は親鸞聖人がご往生になる四年前の正嘉二(一二五八)に、五十歳にて往生されるまで、京都の親鸞聖人を慕い支えていました。


埋葬の折、専修寺三代顕智によって持ち帰られた聖人の
歯九粒が納められている
高田如来堂建立
『大谷遺跡録』、『親鸞聖人正統伝』には「嘉禄元(一二二五)年正月親鸞聖人五十三歳の時に稲田より下野国大内庄柳島に行かれましたが、日が暮れ近くに人家がないので大きな石の上で念仏を称えつつ夜を過ごされました。明星がでる頃に柳の枝と白砂の包みを持った童子が忽然とあらわれ、南方の水田を指さし、ここは釈尊、如意輪観音の霊地であるので、伽藍を建立するように告げ、柳と包みの中の菩提樹の実を授けました。聖人は水田に柳を刺し、菩提樹の実を石の南側に植え、石に座し念仏を称えていると一夜にして柳と菩提樹は生長し水田は高く堅く盛り上がったのです。このことを知った真岡城主大内国行を始め地域の豪族は聖人を大変敬いました。
また、同年四月に親鸞聖人の夢に聖僧が現れて、信州善光寺に来れば、我が分身を与えるので、伽藍を建立し、これを安置し、末代の衆生を引導するように告げ西に向かって去ったところ夢が醒めました。早速親鸞聖人は弟子の性信坊と順信坊を伴い善光寺へ行くと、昨夜善光寺の僧達が、明日我が弟子の善信法師が来るので我が分身を分けて与えるようにとの夢を見ましたが、はたして善信なる僧は何人なのだろうかと話しているところへ、親鸞聖人一行が来たので、一光三尊の金像を聖人に献じました。親鸞聖人はその像を袈裟に包み、笈に入れ、自ら背負い高田に戻り、早速造営を始め二年にして完成し、そのお堂の左右に柳と菩提樹を植えられました。親鸞聖人は六十歳まで住持をし、弟子の真仏に譲った」と伝えています。
現在高田専修寺の如来堂に安置されているご本尊は一光三尊仏(一つの光背の中に阿弥陀如来と脇士観音菩薩、勢至菩薩が立つ)です。この一光三尊仏は善光寺様式阿弥陀三尊で、制作年代は親鸞聖人のご在世の時代まで遡ることができると言われています。

親鸞聖人の座られたと伝えられる般若石
親鸞聖人の名号本尊
高田専修寺には親鸞聖人ご自筆の十字名号と八字名号の二幅の名号本尊が伝わっています。またこの他に籠文字で書かれた十字名号に親鸞聖人が賛銘を書かれた二幅の名号本尊も伝わっています。それぞれの名号の書かれた地色から『黄地十字名号』『紺地十字名号』と呼ばれています。
『黄地十字名号』『紺地十字名号』とも上下に色紙型を作り、上段には大無量寿経からのご文、下段には世親の『浄土論』からのご文を親鸞聖人が自筆で墨書しておられます。特に『紺地十字名号』は表装も入れると二m五十p近くにもなり、平松令三氏は「これらの軸が掛けられた、草創期の専修寺は村の辻堂程度の建物ではなく相当な規模であった」と言われています。

慈眼山西照寺

高田専修寺