足立山長命寺(そくりゅうざんちょうめいじ)
西念房は『長命寺略縁起』によると俗姓は八幡太郎(源)義家の子孫井上盛長の子、井上次郎道祐といい、信濃国高井郡の人と伝えています。

   信濃の豪族井上氏
西念房の出と伝えられる井上氏は平安時代の末に信濃国高井郡井上を本拠地とした豪族です。
『大谷遺跡録』では西念房の父盛長は満実の子と記しています。満実は戸隠山別当をつとめ信濃国高井郡井上に館を設け井上氏を名乗っています。
 親鸞聖人が関東でのご教化の拠点とされた稲田のご草庵を、親鸞聖人のご帰洛後任されと伝えられる善性房も勝願寺の伝承では井上氏の出と伝えています。
『長命寺略縁起』では道祐は幼くして父を亡くし、水内郡駒沢に移り住んだと伝えています。
 父の遺言
『略縁起』は「武士の家に生まれ人を殺す罪を数多く犯したがために、地獄に落ちるに違いない。出家し父母の菩提を弔ってほしい」と幼いころに聞いた父の言葉により、道祐は出家を思い立ち、越後居多ケ浜の五智国分寺に参籠した。七日目の夜五智如来の夢告を得て同地にご流罪に処せられていた親鸞聖人の弟子となり、西念という法名をさずかったという。その折西念は聖人より九字の名号を賜り、駒沢の庵に掛け人々にも専修念仏を勧めた。以後十余里の道をいとわず、越後の親鸞聖人を訪ねご給仕申し上げたと記し、西念が越後にて聖人のお弟子となったと伝えています。
『略縁起』は西念房が親鸞聖人のお弟子となったのを聖人三十六歳、西念房が二十八歳の時としています。
  武蔵野国の井上氏所領
また建保二年(1214)親鸞聖人が関東に向かわれるに際し西念もお供をし、下野国八島、常陸国河内郡小島、常陸国茨城郡稲田郷と常にお側に仕えした。武蔵野国足立郡野田に井上氏一族の所領があったため、西念はここに坊舎を建て聖人より受けた教えを人々に伝えたと記されています。
 百七歳にての往生
『略縁起』は聖人の帰洛に際しても西念は京までお供をし、また数年を置きに上洛して親鸞聖人にお会いしたと伝えています。
上洛の折に、高齢になった西念は最後になるかもしれないと思い、形見に親鸞聖人の寿像と六字の名号を賜ったと伝え、また西念房は親鸞聖人の往生の報に接し、この聖人の寿像の前に門弟を集め報恩謝徳のために礼讃念仏をつとめ、これを毎年ご命日に続けたといいます。
『略縁起』は正応元年(1288)覚如上人が東国を径回されたとき、百七歳になっていた西念は覚如上人にお会いしたと伝えています。この折にお会いできたのも長寿の徳と話すと、覚如上人は大変喜ばれ長命寺という寺号を与えたと伝えています。
 翌正応2年(1289)西念は寿像に向かい端座合掌して「観彼如来本願力乃至真実功徳大宝海」と称えて百八歳にて往生を遂げた。門弟は大変悲しみ西念の寿像を彫り、聖人の寿像の傍らに安置し、月々の命日には念仏勤行をしたと伝えています。

慈眼山西照寺

足立山長命寺