証拠山大山禅坊阿弥陀寺
               −二十四輩第十四番 定信房

親鸞聖人は常陸大山の地に草庵を結ばれ、この大山禅坊に覚如上人が阿弥陀寺という寺号をお付けになったと伝承されています。
 建保二(1214)年親鸞聖人は越後より関東に移られました。『常陸大山禅坊畧縁起』は常陸に移られた二年後の建保四(1216)年5月に那加西大山の地に庵を結ばれたと伝え、ここを常陸北部念仏の道場とされ、北は奥州(福島県)西は下野国(栃木県)にみ教えを弘められたと記しています。
法然聖人の法会
『常陸大山禅坊畧縁起』はこの大山草庵にて建保四(1216)年に師である法然聖人の追悼会を勤められた。この法要を「満足の法会」といい、また「真宗興行の法要」とも伝わっていると記しています。


六高僧蓮座像
 この法要の折に親鸞聖人は十字名号(帰命尽十方無〓光如来)と法然聖人・聖徳太子の絵像を三尊として、また六高僧の絵像を安置し法要を勤められたと伝承され、現在阿弥陀寺には弥陀三尊絵像として十字名号・法然聖人・聖徳太子の絵像と六高僧の絵像が伝わっています。
 大山住職は「親鸞聖人は御和讃に勢至菩薩が法然聖人として示現されたと讃嘆され、また親鸞聖人は救世観音菩薩が聖徳皇(聖徳太子)として示現されたとも讃嘆されておられますので、弥陀三尊としてこの三尊の絵像を用いられたのでは」とご説明くださいました。
『桂村史』は「当時大山には、師法然上人の孫弟子であった行観が建暦二(1212)年に開山したといわれる浄土宗の阿弥陀寺があった。親鸞聖人は師法然上人のゆかりの寺を頼ってこの地に至り、その境内に草庵を結」んだのではないかと推察しています。

定信房への付属
『常陸大山禅坊畧縁起』は親鸞聖人が関東ご滞在20年を終え京都にお帰りの時大山の草庵を弟子の定信房に付属されたと伝えています。
 定信房は『大谷遺跡録』によると、慈慶法印という三井寺の僧であったが、仏のみ教えを伝えるために関東に下ったところ、親鸞聖人に出会い弥陀の本願を聞いて弟子となり定信房という法名を賜ったと伝えています。また阿弥陀寺に伝わる『大山禅坊系譜』は定信房を慈慶房法印尭範阿闍梨とし、大山にて親鸞聖人の弟子となったのを建保五(1217)年とし、文永九(1272)年3月15日に86歳にて示寂したと記しています。
太祖聖人面授口決交名記
 阿弥陀寺に伝わる『太祖聖人面授口決交名記』には定信房門侶として33人が記され、定信房によって多くの弟子が育てられたことが伺えます。

大山禅坊系譜
 定信房は妻帯していなかったために定信房の往生の後、親鸞聖人の直弟たちが大山に集まり協議の上、親鸞聖人の実子善鸞の子善明が大山草庵の三代となられたと『常陸大山禅坊畧縁起』は伝えています。
 また『常陸大山禅坊畧縁起』は覚如上人の時、大谷の廟堂(親鸞聖人御廟)が亀山天皇から久遠実成阿弥陀本願寺の寺号を賜り、覚如上人が正応三(1290)年大山に下向された折、阿弥陀の三文字を大山に贈られ大山草庵に阿弥陀寺の寺号がついたと記しています。
 明徳二(1391)年額田城主小野崎従通の懇願により、額田城の守護寺として阿弥陀寺は大山から額田城内(現在地)に移されています。

慈眼山西照寺

阿弥陀寺