橘昌山称念寺
                     二十四輩第十一番無為信

 仙台市新坂町にある称念寺は親鸞聖人の直弟で二十四輩の第十一番に数えられる無為信房によって建長二年(1250)に創建されたとつたえらけています。

    橘栄住
称念寺の寺伝によると無為信房は左大臣橘諸兄公の後胤で紀州田辺の城主であった橘民部少輔栄住という武士であったという。源平の争乱の惨禍に、栄住は世の無常を感じ、また愛欲名利を追っての闘争に深く罪悪の醜さを思い知り、城主としての地位と名誉を捨てて出家したと伝えている。
 紀州田辺は、平安末期には熊野水軍の拠点でした。熊野水軍は平清盛以来平氏と深い関係があったため、源平合戦の折当初平氏方に与していましたが、矢島の合戦の後には源氏方に加わり熊野水軍を率いる熊野別当湛増は、源平の壇の浦の合戦において活躍しています。また田辺には、源義経の家来として有名な武蔵坊弁慶の故郷であるという伝承も残っています。
 橘栄住は称念寺の寺伝以外では確認できませんが、平氏と源氏の戦いに巻き込まれていった栄住が世の無常を感じて出家したという伝承は興味深いものがあります。
 寺伝では宿縁としか記述していませんが、出家した栄住は親鸞聖人を稲田の草庵に訪ね、凡夫直入の道を聴聞して歓喜の涙を流し、親鸞聖人の弟子となり法名を無為信と賜ったと伝えています。
 奥州への布教
『二十四輩参拝図会』によると無為信は奥州宮城野郡に一宇を造営して、活発に布教したと記し、またその後奥州会津郡大房にも一宇を建立したと伝えています。
 『親鸞聖人門侶交名帳』には無為子奥州会津住と記されています。
『大谷本願寺通紀』には無為信の俗姓を武田信勝とし、出自は称念寺の伝承とは異なりますが、無為信が師命を受けて奥州を行脚し、仙台に一宇を創建した。今の称念寺がこれであると記しています。
称念寺の寺伝も親鸞聖人の命により東北に移り大いに教化につくされ、一宇の念仏道場を結び、その道場に称念寺の寺号を親鸞聖人より賜ったと伝えています。
 また江戸期に編纂された仙台藩の地誌『封内風土記』には無為子は会津の生まれで、橘姓杉岡氏で、常陸で親鸞聖人に遇い僧となった。後に寺を会津に建てたと記しています。
称念寺には親鸞聖人が法然聖人の弟子となり専修念仏に帰入した二十九歳の折の像と伝えられる「親鸞聖人帰入満足の御真影」、源空(法然)・親鸞・無為子・覚信・智性・浄教・海法の七名の高僧を描いた「七体連座御影」、紺地金泥の十字名号に了導・円覚の二人の僧が描かれた「十字名号」など寺宝が多く伝わっており初期真宗を伺いうる貴重な宝物が伝わっています。
 赤門寺
伊達政宗が会津を征服し、後に仙台に築城した際に称念寺も仙台に招かれて仙台北山に六千坪の寺地を賜ったという。
 山門は朱塗りであるため、赤門寺の名で仙台の人々に親しまれている。
文化年間に再建された本堂は仙台市登録文化財に登録されている。

慈眼山西照寺

称念寺