徳池山蓮生院信願寺
                         二十四輩第二十三番唯信房

『信願寺略縁起』は、唯信房の俗姓を幡谷次郎信勝という武士であったと伝えています。
御伝鈔には「親鸞聖人が越後国より常陸国に来られて、笠間郡稲田郷というところに隠居された」と伝え「ひっそりと静かにお住まいになられていましたが、人々が親鸞聖人のもと訪ね。庵の戸を閉ざしていても身分に関わりなく多くの人であふれました」と記しています。この記述では親鸞聖人は積極的には伝道されなかったが、聖人の高名を聞いて多くの人が親鸞聖人のもとを訪ねたとしています。親鸞聖人のお弟子の分布から稲田から一泊で行動できる程の範囲に親鸞聖人の伝承が多く残され、親鸞聖人は稲田を中心に各地へ行脚されておられたことが推察されます。
稲田より鹿島への道
御伝鈔の第三段に記されている山伏弁円が親鸞聖人に危害を加えようと狙ったことが記されています。弁円は親鸞聖人がいつもお通りになられる板敷山で親鸞聖人を待ち伏せして襲おうとします。板敷山は稲田から南へ約8キロに位置し、常陸国国府が置かれた石岡へ通じる道にあたります。また石岡の南には霞ヶ浦が広がり親鸞聖人の伝承が残る鹿島神宮へ至る道に続いていました。
常陸国国府には国分寺もあり、また鹿島神宮には神宮寺がありました。後に笠間の領主笠間時朝は鹿島神宮に宋版一切経を納めています。赤松俊秀氏は親鸞聖人が越後から関東に来られた理由としてこの鹿島神宮の一切経などの文献が、『教行信証』の執筆に必要であったためではないかと推察されました。
唯信房が親鸞聖人のお弟子となった契機を『信願寺縁起』は親鸞聖人が稲田から鹿島神宮に行かれる途中のこととしています。また信願寺の伝承では後に唯信房という法名を授けられた幡谷次郎信勝は幡谷城の城主であったとも伝えています。幡谷城がかつてあった小川町幡谷は霞ヶ浦の北部の東岸に位置しています。小川町の長島家には親鸞聖人真筆と伝承される「喜八阿弥陀」という二十二光阿弥陀如来画像(県指定文化財)が伝わっています。これらの伝承からも小川町を親鸞聖人がお通りになったことが推察されます。

唯信房木像
幡谷城
幡谷城について『小川町史』は「幡谷の城跡」という項で「貞永元年(1232)幡谷城主、次郎信勝、親鸞に帰依して僧となり、名を唯信と改め幡谷に信願寺を開く」と記しています。『小川町史』によると幡谷城は享禄元年(1528)信願寺が久慈郡へ移された後も、幡谷城はそのまま存続し、天正18年佐竹氏の急襲を受け江戸氏の諸将とともに抗戦したが抗しきれず落城し、城主は城を枕に討死したと記しています。
豊臣秀吉の北条攻めに北条氏の働きかけによって、豊臣秀吉の陣に参じなかった水戸の江戸氏が、豊臣秀吉から20万石の領地を安堵された佐竹氏によって攻められた時に落城しますが、それまで幡谷城は存続していました。
観音の夢告
信願寺に伝わる伝承によると「幡谷次郎信勝は観音像を持仏として尊崇していた。建保4年8月13日の夜、その観音像が信勝の枕辺に現れ、「汝城主の位高けれども七宝久しく留まらず。唯今城下に休む聖人のご教化を受けずんば無量永劫仏縁あるべからず直ちに出でて聞法の人となれよ」という夢告を受けました。信勝が城外に出てみると、親鸞聖人が月をめでながら弟子とともに念仏をされながら城下でお休みになっておられました。信勝は聖人に夢のことを告げ、城内に聖人を招き他力本願の妙旨を聞き、夜明けとともに心の闇もはれて、弟子となり法名を唯信と授かった」と伝えています。
親鸞聖人が京都に発たれたと伝えられる貞永元年(1232)聖人を招請して幡谷の郷に道場を建立したと伝えています。
島根県浜田にある唯信房開基と伝えられる顕正寺の由緒書には幡谷次郎信勝を江戸尾張守の嫡子とし、親鸞聖人より唯信房念空という法名を授けられたと伝えています。

慈眼山西照寺

信願寺