三村妙安寺  
            二十四輩第六番成然房

 
聖徳太子絵伝(国重要文化財)
覚如上人が編纂された「伝絵」には、「聖人の俗姓は藤原氏」と記されています。親鸞聖人の出自である日野家は藤原氏一族でありました。二十四輩第六番成然房は三村妙安寺(茨城県板東市みむら)の記録によると、九条兼実公の十男幸実であると伝えています。この三村妙安寺の他に一之谷と前橋に同じ成然房を開基とする妙安寺があります。それぞれの寺の成然房に関する記録には若干の違いがありますが、何れも藤原氏の出であると伝えています。成然房と親鸞聖人は同じ藤原氏の出と伝えられています。また一之谷妙安寺に伝わる『妙安寺古系図』には成然房の母を「対馬守源義親女」と記しています。江戸時代に編纂された『親鸞聖人正統伝』では、親鸞聖人の母を「八幡太郎義家の嫡子、対馬守義親の息女也。御名を吉光女と申す。然れば源氏中興、右大将頼朝、伊予守義経と聖人とは、またいとこにて坐」と記しています。この記述の信憑性については疑問が呈されていますが、もしそうだとすれば親鸞聖人と成然房は従兄にあたることになります。また室町期に成立したとされる『親鸞聖人御因縁』には親鸞聖人の妻として九条兼実公の娘玉日姫が記されていますが、成然房が九条家の出とする伝承と合わせると親鸞聖人と成然房との間には師弟以前に何らかの接点があったのかもしれません。


聖徳太子立像
聖人御自刻の寿像

三村の妙安寺の記録では成然房は下総国幸島境に流罪になっていたと伝えています。その成然房が流罪に処された地の近く常陸国稲田に、親鸞聖人が後に庵を結び関東の人々に専修念仏を伝えられます。建保二(一二一四)年成然房は稲田を訪れ親鸞聖人の教えを聴き感動し弟子となったといいます。また親鸞聖人が関東から京都へ還る折りに、相州国国府津までお供し、別れにあたり聖人は成然房に関東に止まり、人々を教化するようにと告げ、北条氏より寄付された木材で、自らの寿像を刻み、成然房と関東の門弟たちに形見として与え、有縁の地に一宇を建立し、妙安寺と名付けるように告げて京都へお還りになったと伝えています。この寿像は後に東西に分立した後教如上人の要望により東本願寺に遷座され御影堂に御真影として安置されています。

聖徳太子伝

また三村妙安寺の記録には成然房が聖徳太子より、下総国幸島郡三村太子堂最頂院は有縁の地であるので、そこに妙安寺を建立するようにとの夢告をうけ堂宇を補い妙安寺としたと伝えています。三村妙安寺には国の重要文化財に指定されている『聖徳太子伝』四福が伝わっています。また室町期の作と推定されている『聖徳太子像』も所蔵しています。



三村の妙安寺山門
また親鸞聖人ご往生の後、大谷の地に墓が建てられました。その墓はその十年後親鸞聖人の娘覚信尼公の夫小野宮禅念の屋敷内に改葬され、関東の門弟たちが協力して墓を覆う六角の廟堂が建立されました。この地は小野宮禅念より覚信尼公へ相続され、覚信尼公は後に関東の門弟たちに地権を寄進しました。ここに廟堂、敷地共に関東の門弟たちの共有の管理の下におかれ、親鸞聖人を慕う門弟たちが関東から度々参詣しました。この寄進状は三通門弟たちに出されたことが判っていますが、その一通が「下総国サシマ常念坊」宛に出されています。この常念坊は成然房であると推定されています。
このことは成然房が関東の門弟の中で一つの中心的な人物であったことを推察させます。

慈眼山西照寺

妙安寺