帰命山無量寿院如来寺 
                 
                  二十四輩第四番乗念房



二十四輩四番にあげられる乗念房は、「大谷遺跡録」では藤原氏の流れをくむ尾張守親綱とし、鹿島神宮の宮司で聖人の弟子となった片岡信親(順信)の弟としています。


乗念房は如来寺の略縁起によると上野国片岡郡の城主片岡尾張守源九郎親綱という豪勇無双の武人で兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだと伝えています。乗念(親綱)の兄、片岡信親は鹿島神宮の宮司でありましたが親鸞聖人の弟子となり、聖人より順信と法名を授っています。順信は、性信を中心に形成された横曽根門徒、真仏・顕智を中心に形成された高田門徒と並ぶ鹿島門徒の中心として親鸞聖人の去った関東の真宗教団の代表として活躍し、親鸞聖人没後の廟堂(親鸞聖人の御廟)や聖人の遺族に対しても援助をしていたことがうかがえます。
霞ヶ浦の御草庵
略縁起は如来寺創建にまつわる伝承として「親鸞聖人が関東に来られたころ、霞ヶ浦の湖中に光る物があらわれ、漁獲がなくなり、湖岸の猟師が困っていた。建保2(1214)年白髪の翁が浮木に乗って現われ、「私は鹿島明神であり、明日親鸞聖人という末代の名僧がお通りになるので、あなた方が恐れている光る物をご覧いただき、ご済度をお願いしなさい。また私が乗ってきた浮木は天竺より渡来した名木である。聖人に献じなさい」と告げて忽然として消えた。翌日村人たちが待っていると親鸞聖人がお通りになり、村人がその旨をお願いするとお引き受け下さり、夜その光を見て聖人は「これは怪しい光ではない。仏の放つ光だから早速舟を出してお引き上げしましょう」と仰せられ漁夫とともに舟をめされ、網をうち引き上げられたところ阿弥陀仏の尊像が上がった。聖人は草庵を結び先の香木で聖徳太子の尊像を刻まれ、仏像とともに安置され村人を導かれた。これを霞ヶ浦の御草庵と称した」と記しています。

香木浮足の太子
如来寺の略縁起では親綱は建保3(1215)年この霞ヶ浦御草庵に親鸞聖人を訪ね、教えを聴き直ちに剃髪して弟子となり、乗念房領海と法名を授けられたと伝えています。
略縁起にはその時、乗念の詠んだ歌と聖人の御返歌が記されています。
よしあしも 知らぬ難波の
蛋小舟 誓の海によりてさだめん
本願の海によりてのあま小船 櫓もとられて乗りてしかなり
親鸞聖人が関東をさられる時、乗念がお供を願い出ると聖人は後に残る同行のために残るように告げ、御草庵を乗念に付属したと略縁起は伝えています。
「門侶交名帳」
親鸞聖人の弟子を知るうえで重要な資料である「門侶交名帳」の明源寺本と光薗寺本には真仏・入信・乗念・性信・順信・如信の順で記され、乗念が横曽根門徒の代表性信や鹿島門徒の代表である順信の前に記されいます。乗念の事績の詳細は明らかではありませんが、親鸞聖人の直弟の間では一目置かれる大きな存在感があったことが伺えます。

親鸞聖人お手植えの菩提樹
寺地の交換
「二十四輩参拝図会」は浮島南荘廃退に及び後に柿岡に再興したと伝えています。
如来寺に伝わる伝承では明応7(1498)年柿岡の同じ寺号の如来寺と寺を交換し現在地に移ったと伝えています。交換したもう一方の寺である美浦村の如来寺(天台宗)も同様の伝承が伝わっており、寺地を交換したのは確かなようですが、その理由は定かではありません。
知切光歳氏は著書『親鸞の寺々』で、「上野国(群馬県)に片岡という地名は今はない。・・・常陸国に片岡という地名が二ヵ所ある。一つは新治郡片岡で、今の如来寺のある柿岡の隣接地帯でむかしは北郡片岡と呼ばれた古い地名である。今一つは鹿島郡の片岡で、鹿島神宮の南にあり、地名辞典に「片岡神主の墟」なりとあって、明らかに順信の出た片岡家代々の所領地で弟(順信の父の弟)、即ち叔父の片岡親綱、後の乗念が神主に代わって領地を宰領したとしても不思議はない。一方新治郡の片岡も如来寺の隣接地で後世如来寺が柿岡へ移転したことから考えて、やはり片岡家の一族の領地であったのではないかと推定できる。いずれにしても常陸鹿島の名族、片岡家の一族、乗念はこの地方で、霞ヶ浦浮島を領有していたとしても不思議はない」と推察しておられま

慈眼山西照寺

如来寺