大門山枕石寺
                   二十四輩第十五番 入西房


枕石寺山門
 枕石寺は親鸞聖人の直弟二十四輩第十五番入西房道円の開基と伝えられている。枕石寺に伝わる親鸞聖人の枕石の伝承は倉田百三氏の「出家とその弟子」にも取り上げられている。
 入西房は『親鸞聖人門侶交名帳』三河妙源寺本には、真仏の次に「入西常陸国住」と親鸞聖人直弟子の中で二番目に記載されており、親鸞聖人の教えを受けた人々の中でも一目置かれた存在であったことが推察されます。

入西観察
 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人の編纂された『御伝鈔』の上巻の第八段には、入西房が親鸞聖人の真影を、かねてから写させていただきたいという願いを持っていることを知った親鸞聖人が、京都の七条あたりに住んでいた定禅法橋という絵師に描かせなさいと仰せられて、入西房が定禅法橋を招いたことが記されています。定禅法橋が真影を写すため親鸞聖人に会うと、定禅法橋が昨夜夢に見た僧とまったく同じ容貌であることに感激して、定禅法橋が自ら昨夜見た夢を語ったというのです。その夢は定禅法橋のところに二人の尊い僧が訪ねてきて、一人の僧がもう一人の僧の真影を写して欲しいと願いでたので、定禅法橋がその僧はどのようなお方かと訊ねると「善光寺の本願の御房」であると答えたというのです。定禅法橋は合掌し跪き、生身の阿弥陀如来に違いないと身の毛がよだつほど尊く敬った。その僧は顔を写すだけでいいと言われた。このような会話をしているところで夢が醒めたというのです。覚如上人はこのことを聞き親鸞聖人は弥陀如来がこの世に現れ来てくださったお方であることは明らかで、親鸞聖人の弘通されたみ教えは弥陀の直説というべきであると書かれています。

親鸞聖人絵伝
 その夢は仁治三(1242)年九月二十日であったと記されていますので、親鸞聖人七十歳の時であったことになります。『御伝鈔』に記されている入西房が枕石寺の開基の入西房と同一人物だとすれば、入西房ははるばる京都に上洛していたことになります。
 この当時、師より真影の書写を許されるということは、師より教えを十分に理解したことを認めていただいたという意味があります。親鸞聖人は『教行信証』の「化身土巻」に元久二(1205)年に師法然聖人より『選択集』の書写と真影(肖像画)の作成を許されたことを記され、その慶びを「決定往生の徴なり」とまで記しておられます。
 親鸞聖人より真影の製作を許された入西房の慶びは大変大きかったことでしょう。また入西房が親鸞聖人の深い信頼を得ていたことが推察される出来事であります。

枕石の伝承
 『枕石寺縁起』によると枕石寺開基入西房の俗姓は日野佐代弁頼秀の末孫にあたる日野左衛門尉頼秋といい、この地に隠棲していたと伝えています。
 頼秋が親鸞聖人のお弟子となるに至った経緯を『枕石寺縁起』は、親鸞聖人が日野頼秋の館を訪ねて一夜の宿を願ったところ頼秋は、樹の下、石の上を宿とするのがお釈迦さまの弟子である出家の習いなのだから、野に寝て、石を枕としたらよいであろうと宿を断った。親鸞聖人は門前に出られ雪の中、石を枕にして休まれたが雪は次第に降り積もり、寒風は肌を切り裂かんほどであった。深夜、観世音菩薩が現れ頼秋に「お前は今阿弥陀如来がお泊りになっていることを知らないのか、早くご教化を頂かなければ、これから永劫に苦海を遁れることはできないであろう」と告げた。頼秋が驚き門前に走り出てみると親鸞聖人が石を枕にされ、ひたすらに念仏を申されていた。頼秋は後悔の念をいだき、聖人を館へ招き入れてご化導を賜り弟子となり、法名を授かり入西房道円と名のられたと伝えています。

枕石寺本堂
出家とその弟子
 この親鸞聖人の枕石の伝承は倉田百三氏が大正五(1916)年に創作した戯曲「出家とその弟子」に題材として用いられ、当時の多くの若者に感銘を与え、本願寺の門信徒のみではなく多くの人々の知るところとなりました。

慈眼山西照寺

枕石寺