慈眼山西照寺

外森山唯信寺



外森山唯信寺
                     二十四輩第二十二番唯信房

唯信寺は親鸞聖人の直弟唯信の開いた寺です。唯信の俗姓を『唯信寺縁

起』は宍戸四郎知家の三男山城守義治という武士であったと伝えていま

す。

八田氏の善光寺信仰

唯信寺の開基唯信の父知家は八田宗綱の子にあたります。知家は鎌倉幕

府の有力御家人として常陸国守護に任じられています。茨城県石岡市の善

光寺は知家の創建と伝えられています。

知家は新善光寺殿という法号をもっていました。唯信房が親鸞聖人に帰依

された背景には、父知家の善光寺信仰の影響があったことが伺えます。

小鶴荘と九条家

常陸国守護所は知家の所領であった小鶴荘域内に置かれたと『友部町

史』は記していますが、小鶴荘は九条家の荘園でした。親鸞聖人の妻として

本願寺系図には九条兼実女と記されています。また関東に多くの伝承が残

る玉日姫は九条兼実公の娘と伝承されてきました。

友部町内に明治期まであった新善光寺は知家の子で法然聖人の弟子善

慧房証空の弟子となった解意阿弥陀仏観鏡によって創建されたと伝えられ

ています。

宮井義雄氏は「(親鸞聖人が)常陸国を自身の主たる布教地としたのは、八

田知家の意向が招請の主たる存在だったからであろう」と推察され、さらに

「守護八田知家が法然門下の勧進聖を要望し、京都在住の宇都宮頼綱

(出家し蓮生と法名を名のり法然聖人の弟子となる)にはかり、頼綱が親鸞

のことを知り、推したのを機縁として、東国布教を志したことが想察される」と記

しておられます。宮井氏は親鸞聖人が活動の拠点とされた稲田をとりまく浄

土信仰をもっていた八田氏や宇都宮氏の存在から推察しておられます。

稲田のある笠間に隣接する友部にも善光寺信仰や、法然聖人の教えに帰

依した人々、また親鸞聖人の妻と伝承されてきた玉日姫にまつわる九条家

の存在などが伺えます。ただこれらを結びつける具体的資料はなく、いまのと

ころ私たちの想像を膨らますだけなのです。

唯信房像

親鸞聖人と宍戸義治

『唯信寺縁起』によると義治は仏縁が深く、若くして世の無常を感じ、度々稲

田御草庵に親鸞聖人を訪ね御教化を賜り、み教えを喜び、二十二歳の時

親鸞聖人のお弟子となって法名を唯信と賜った。唯信は親鸞聖人が関東を

ご化導された間、常に近くに御供し、親鸞聖人の命により奥郡外森に一宇を

建立してたといいます。

また親鸞聖人が鎌倉で執権北条泰時が発願して一切経校合に携わられた

時も、唯信房は親鸞聖人のお仕事を助け仕えたことも伝えています。

十余ヶ国の境を越えて

『歎異抄』第二条には「おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかえり

みずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問

ひきかんがためなり」という親鸞聖人を訪ねた関東のお弟子たちに語った場

面が記されています。

その身命をかえりみずに京都へ親鸞聖人を訪ねたのは、唯信寺の古いご門

徒であったと伝承されています。今もその地域の人々は唯信寺のご門徒とし

て信仰を守り続けておられるとのことです