平林山新田院真田園本誓寺

                             二十四輩第十番是信房

本誓寺の寺伝では是信房の俗姓を吉田大納言信明と伝えています。平氏の没落により流人となった信明が越後国柏崎に住んでいた時に、承元の法難によって同じく越後に流罪となった親鸞聖人の法席に偶然出会い、出家し法名を是信と名のったと伝えています。
本誓寺の伝承では是信は聖人が越後での流罪中の弟子ということになります。
寺伝では是信は流罪中より常に親鸞聖人に従い、また勅免を受けてから聖人とともに善光寺に参詣し、信濃国埴科郡(はにしなぐんよ)倉科(くらしなぐ)村藤原山上の天台宗の一宇を改宗して本誓寺としてと伝えています。
この本誓寺のご本尊阿弥陀如来は「瀬踏みの阿弥陀如来」と呼ばれて次のような伝承があります。
 建保元年(1213)親鸞聖人が善光寺に参られたとき、善光寺如来が聖人の枕元に現われ自らの像を刻むように告げ、聖人は自ら拝見したお姿を刻まれ、笈の中に納め常陸国へ赴こうとされた。その時雨が続き何日も千曲川の船も絶えていた。聖人が岸に佇んでいると、童子が現われその童子に聖人は手を引かれ川を渡ることができた。それと同時に「わが住処、道しるべせんこの方へ、本の誓いの御へぞ行け」と西を指さし笈の中に消えてしまいました。不思議に思って笈を調べると善光寺で感得した如来さまはびしょ濡れだった。
この「本の誓い」たる寺のご本尊として安置されているというのです。
 その後是信房は建保三年(1215)親鸞聖人の命で奥州に下り、斯宣郡石ケ森(現・盛岡市)に一寺を建立し同じ本誓寺とした。是信房は聖人がご往生なされた後、文永三年(1266)奥州の地で亡くなったと伝えられています。
本誓寺は正平元年(1346)倉科より生萱村に移っていますが、この時に新田義貞の子貞重が家臣によってこの寺に匿われ、後に住職となったと伝えられています。
 慶長15年(1610)松平忠輝の命によって現在の松代に移転しています。

慈眼山西照寺

新田院真田園本誓寺