遍照山善重寺 
                      二十四輩第十二番善念房

善重寺本堂
水戸市酒門町の善重寺の開基は二十四輩第十二番善念房です。善念房は寺伝では善念を三浦三郎義重という武士であったと伝えています。
善念の俗姓を『二十四輩参拝図会』では三浦三郎義重を三浦大助義明の弟岡崎四郎義実の孫与市左衛門実忠の三男としています。三浦義明は治承4(1180)年伊豆で挙兵した源頼朝の下に参じましたが、頼朝は石橋山の合戦で敗れ真鶴から安房へ逃れ、三浦義明は平家方から攻められ討ち死にしています。
その子義澄は安房で頼朝と合流し、関東の武士を束ね鎌倉へ入っています。義澄は頼朝より三浦介に任ぜられ、北条氏とともに幕府の中で中心的地位を得ていました。
義澄の甥和田義盛も侍別当として平家追討の中心として活躍し、やはり幕府の中で権勢をほこりますが、建保元(1213)年北条氏に対し挙兵し破れ滅んでしまいます。この時に善念房の父実忠も義盛と同心して討ち死にをしたと『二十四輩参拝図会』は伝えています。
 

親鸞聖人御分骨

聖徳太子像
桜川で聖人と邂逅
善念房と親鸞聖人の出会いを『二十四輩参拝図会』は建保4(1216)年義重が鹿島神宮に参拝した帰り、桜川にさしかかった時に、大変尊い老僧が流れを渡れず困っていました。義重はみかねて老僧を背負い川を越えました。この僧が親鸞聖人だったのです。この縁により、親鸞聖人よりご教化を賜り、大変歓びお弟子の中に加わったと記しています。さらに親鸞聖人桜川のほとりに一宇を建立し、ご教化されましたが、これを善念房に付属し、善念房は弘安八(1285)年85歳で入滅されるまで師の命に従い人々を導いたと記しています。
 
水戸光圀公による保護
『遺徳法論集』では善重寺は常陸国笠間にて建立し、後に同国那珂郡東門部に移転し、その11代後に村田常弘寺の境内に身を寄せ、13代の時に現在の地に再興されたと記しています。現在の地に善重寺を再興されたのは水戸光圀公です。水戸光圀公は領内の寺院を整理しましたが、由緒ある寺院は取り立てて再興し保護しています。善重寺は親鸞聖人の旧跡として保護を受け、江戸期は領内の触頭を勤めています。
 
鎌倉中期の聖徳太子像
善重寺には国の重要文化財に指定されている鎌倉中期の作と推定される聖徳太子像が伝わっています。この聖徳太子像は浄土宗の大山慈願寺に伝わっていたものでありましたが、水戸光圀公が善重寺に寄進したものです。かつて大山には親鸞聖人が滞在された「大山禅坊」があったと伝えられています。善重寺では親鸞聖人が参拝されたお像と伝えていますが、大山の地にあったことからすれば実際にそうであったのかもしれません。聖徳太子像は太子の御命日2月22日に御開帳されます。
今井正晴氏は「二十四輩記」の中で大山慈願寺には『親鸞聖人等身影像』もあったこと、またその影像は後にやはり善重寺に移され、大谷派の江戸浅草御坊に懸けられていたとの記述があることを指摘されています。

慈眼山西照寺

善重寺