親鸞聖人の御生涯

◯承安三年(1173) 誕 生     御旧跡・日野誕生院法界寺三室戸寺
                   ・父日野有範
※明治29(1896)年『史的批評・親鸞真伝』村田勤が出版され親鸞非実在論
 近代歴史学者より
最初につくられた宗祖の伝記は、覚如宗主編の『親鸞伝絵 ( 善信聖人絵』永仁三年・1295初稿)で、宗祖没後三十三年目に著わされたものである。

〇治承五年(1181)9歳  得 度  御旧跡 青蓮院比叡山延暦寺

宗祖は治承五年(1181)春、9歳の時伯父範綱に伴われ、慈円僧正(1149〜1207慈鎮和尚・九条兼実の実弟、愚管抄の著者当時27歳)を戒師として青蓮院で得度し、天台宗の僧侶となった。慈円は当時もっとも有力な公家でった九条兼実の弟で、のち天台座主についた僧侶である。
※範綱文章生若狭守後白河法皇の院の近臣 後白河法皇の死とともに隠遁
                                  磯長御廟
○建仁元年(1201)29歳六角堂参籠 御旧跡 六角堂
 ・聖徳太子の夢告により法然の吉水禅室
○建仁元年(1201)29歳吉水入室  御旧跡 ・岡崎別院安楽寺
 ・六角堂参籠の夢告によって、東山吉水の法然上人の門に入る。
  法然上人が専修念仏に帰入されたのは安元元(1175)年親鸞聖人3歳の頃
○元久元(1204)年32歳延暦寺衆徒 専修念仏停止を天台座主真性に訴える
 ・法然上人は弟子に「七ケ条制誡」を示し、署名を求める
 170名が連署しているが、親鸞聖人は87番目に「僧綽空」と署名している。
                           (京都二尊院に伝わる)
○元久2(1205)年33歳4月「選択集」付属
・吉水時代の親鸞説話
『伝絵』は六段に「信不退・行不退の両座判釈」七段「信心一異の談論」をつたえている。後話については『歎異抄』の「あとがき」にもある。
『口伝鈔』は「聖覚法印への使者」「聖光房弁長・引導」「証空との体失不体失の論争」
を伝える
 *九条兼実の女玉日姫との結婚。この伝承は室町時代の初期から初めて見られるもので、現在では事実と考える人は少ない。
○元久2(1205)年33歳興福寺衆徒、専修念仏の九失をあげて禁止を上奏する。
○建永元(1206)年34歳2月興福寺衆徒、再び専修念仏について禁止を九条良経に訴える。・2月行空、安楽房遵西を捕える院宣を出す。・12月住蓮・安楽が鹿ガ谷で別時念仏を修す。                     月輪寺
○承元元(1207)年35歳承元の法難 2月 越後配流   御旧跡 居多ケ浜
非僧非俗                      五智国分寺・国分別院・光源寺
親鸞が僧籍を剥奪され、藤井善信という俗名を与えられて越後国府(新流されたことは「拾遺古徳伝」や「親鸞伝絵」に伝えられている。
 
・結婚と家族     御旧跡 板倉(恵信尼公廟所山寺薬師
親鸞は越後の豪族三善為教の女恵信尼と結婚(結婚の時期には異説あり・玉日姫との関係)大正十年初冬西本願寺宝庫から恵信尼文書が発見
○1211 (建暦元) 年 39歳 赦 免  御旧跡 善光寺   法福寺
○1212(建暦2)年 40歳1月法然上人ご往生 
・11月明恵『摧邪輪』を著わす。
○1214(建保2)年 42歳  関東移住        御旧跡 二十四輩寺院他
宮崎円遵氏=庶民。しかしいろいろの階級の人を含んでいた。    小島の草庵
服部之総氏=下層農民
赤松俊秀氏=悪人−商人(商人の罪悪感)・猟師
河田光雄氏=鎌倉幕府というのは被差別民衆の築いた国家

○1224(元仁元)年52歳『教行信証 』撰述 御旧跡 稲田西念寺  
○1232〜1235 60〜63歳頃帰 洛     御旧跡 箱根神社・笈の平
○1256(康元元)年84歳 善鸞義絶
○1262(弘長二)年  90歳 往 生        御旧跡 角坊別院
1262(弘長二)年11月下旬 、親鸞は病を発し、二十八日(午後二時ごろ)、波欄に富んだ生涯を終えた。享年九十歳である。 その臨終に立ち会ったものは舎弟の尋有・未女覚信尼のほか、越後の恵信尼のところから父のところにきていた息男益方入道道性などの血縁者と、下野高田の顕智・遠江池田の車信等若干の在京の門弟たちであった。
 ご往生の地は尋有の三条富小路の善法坊

慈眼山西照寺

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