京都・吉水草庵

円山公園と安養寺



買い物客や観光客でにぎわう四条通を東に突き当たった八坂神社の境内を抜けると円山公園があります。
円山公園は中央に池を配した和風庭園で明治神宮の庭園や山形有朋の無隣庵の作庭で知られる小川治兵衛によって造られました。園内には有名な枝垂れ桜があり、春の花見時期には公園内の八百本もの桜がライトアップされ、花見客でにぎわいます。また園内には料亭や茶店などが点在しており、ガイドブックでは「一見さんでも気楽に入れて、手頃な料金で楽しめる店も多い」と紹介していますので、公園を散策した後京料理に舌鼓を打つのもよいかもしれません。
この円山公園は明治政府が接収するまでは、主に六つの塔頭を持ち広大な寺域を擁した安養寺(時宗)の境内でありました。円山公園の名も「慈円山安養寺」から付けられたといいます。円山公園を東に抜けたところに現在も安養寺があります。この安養寺は伝教大師の創建と伝えられていますが、また法然上人が比叡山を離れた後、ご流罪に処せられるまで永く庵を結ばれた吉水草庵の跡でもあります。安養寺山門脇には「法然・親鸞両上人御旧跡吉水草庵 慈円山安養寺」と刻まれた石柱が建てられています。

法然上人の求道

法然上人は十三歳にして比叡山に登りその後三十年に渉り比叡山で修学され知恵第一と評されました。しかしその評価に安住することなく、懸命に求道を続けられますが、自らの救いを見いだすことができずに、懊悩されます。その中で比叡山西塔黒谷の経蔵にて一切経を五回も読み返され、ついに善導大師の著わされた『観経疏』に救いの道を見いだされたのです。それは教典を学び、厳しい修行によって仏道の成就を求める道ではなく、自らを含めいかなる人も阿弥陀仏によって平等に救われるお念仏の道でありました。
専修念仏に帰された法然上人は比叡山を降りられ、最初は西山の広谷に庵を結ばれましたが、しばらくして、ここ東山吉水の草庵に移られ伝道布教に努められました。

親鸞聖人の入室

親鸞聖人も九歳より二十年間比叡山の僧として修学されました。しかし比叡山での修行で仏道を成ずることが出来ず懊悩され、六角堂参籠中の聖徳太子の示現を契機として、法然上人のもとを訪ねられそこに自らの救いを見いだされたのです。親鸞聖人の妻であった恵心尼公は「聖人は法然上人に会われてから、百日降る日も照る日も、ひたすら吉水の草庵に通われ、専修念仏のみ教えに帰することですべての人が救われる道を御聴聞された」(趣意)と娘覚信尼公に宛てたお手紙に記されています。
親鸞聖人が法然上人のもとを訪ねられたとき法然上人は六十九歳でありました。法然上人が善導大師が著わされた『観経疏』に出会われ専修念仏に帰されたのは、上人四十三歳の時でありますから、もう既に二十五年以上が過ぎていたことになります。
親鸞聖人はこれから承元の法難によって法然上人とともに流罪に処せられるまでの六年間この吉水の草庵でお念仏のみ教えを聴聞されたのです。

慈眼山西照寺

吉水禅室