聖徳太子の示現

一二〇一(建仁元)年、親鸞聖人は二十九歳にして比叡山を去り法然上人の門人となられました。その契機を親鸞聖人の妻恵心尼公は娘覚信尼公にお手紙で「比叡山を降りて、六角堂に百日参籠されたところ九十五日目の明け方聖徳太子の示現にあづかって法然上人に会われた」(取意)と書き送っておられます。このお手紙により現在私たちは親鸞聖人が比叡山を降り京都東山の吉水にて専修念仏を民衆に説いておられた法然上人のもとに行かれたのは六角堂に参籠し、聖徳太子の示現であったことを知ることができます。六角堂は京都の町中にあるため度々火災にあっていますが、その度に再建されてきました。現在の六角堂にはご本尊「如意輪観音」とともに「聖人夢想の像」がご安置されています。また境内には「親鸞堂」があり親鸞聖人の「草鞋の御影像」がご安置されています。

聖人の聖徳太子崇敬

親鸞聖人は聖徳太子に対する尊崇を生涯絶えることなく持ち続けられました。晩年聖人は数多くの「御和讃」(今様形式の詩)をご制作になっておられますが、その中に聖徳太子を讃仰する御和讃が多数伝えられています。そこで聖人はみずからを末法相応の教えに導いてくださった恩徳や、日本に仏教を広められた聖徳太子の御事跡を讃仰されています。
築地別院では聖徳太子像を現在は本堂右余間にご安置していますが、江戸期より大正大震災で焼失するまで境内には太子堂があり、そこにこのお像をご安置していました。浄土真宗の寺院には古く聖徳太子をご本尊にした寺が関東、東海を中心に多くあったとも指摘されています。それは親鸞聖人が尊崇された聖徳太子を奉ったお堂でお念仏のお法りを人々に伝えた事跡によるのかもしれません。親鸞聖人の関東での御旧跡の一つ小島草庵跡には現在四基の石塔が残っていますが、それらの石塔には敏達天皇、用明天皇、聖徳太子、蘇我馬子と聖徳太子に縁のある四人の名が刻まれています。

参籠して仏道成就を

六角堂は正式には紫雲山頂法寺といい現在では天台宗の単立寺院ですが、聖徳太子創建と伝えられています。寺伝では「聖徳太子が四天王寺を造るための用材を探し、この界隈を徘徊し、ここの清水にて沐浴するために御持仏をタラの木に掛けておいたところ、沐浴が終わりお像を取ろうとしたが動かなかった。その夜観音菩薩が現われここに留まって衆生を利益すると告げらたためここに寺を造り、御持仏の観音菩薩を御安置した」と伝えています。
六角堂境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、二歳の頃の聖徳太子の像が安置されています。ご本尊は太子の護持仏といわれる御丈一寸八分(約五・五cm)の如意輪観世音菩薩です。平安時代から六角堂は上皇から庶民まで幅広い信仰を受け、ご本尊の観音菩薩の霊験や説話が数多く語りつたえられています。その六角堂に親鸞聖人は仏道成就の道を参籠され尋ねられたのでした。

華道池坊の発祥の地

太子が沐浴された池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊の代々の住持による仏華からいけばなが始められ、特に小野妹子二十七世の孫と伝えられる池坊専応は立花を大成し『池坊専応口伝』という最古の華道の書を残しています。この池坊の立花が現在の華道の池坊へと続いています。六角堂はいけばなの発祥の地でもあります。

親鸞聖人の足跡を訪ねて 

京都・六角堂

慈眼山西照寺

六角堂