箱根神社(箱根権現)・萬福寺

萬福寺山門

 
親鸞聖人像
「御伝鈔」には親鸞聖人が箱根権現に 立ち寄られたことが記されています。 明治まで箱根権現に安置されていた 阿弥陀如来像は現在箱根の萬福寺に 安置されています。

 芦ノ湖の湖畔ぞいにある、箱根神社は明治の廃仏棄釈までは「箱根権現」と呼ばれ、金剛王院東福寺がありました。
  箱根権現は平家追討の挙兵し石橋山で破れた源頼朝を別当の行実がかくまったことから、鎌倉幕府成立後尊崇をうけ、「吾妻鏡」には頼朝公自ら、精進潔斎し幾度も参拝されたことが記されます。
親鸞聖人と箱根権現
  この箱根権現は覚如上人よって書かれた親鸞聖人の伝記「御伝鈔」の下巻第四段の舞台となっています。「御伝鈔」には、聖人が関東での生活に別れを告げ、京都へ帰る途中、日も暮れ暗くなり箱根のけわしい山路で困ったが、どうにか旅人の歩いて行った後をたどって行くと、ようやく人家を見つけた。聖人が戸を叩き声をかけると、立派な衣裳をつけた老人が出てきて、「ここは箱根権現の社にほど近いところで、この地の慣わしとして、神に仕える者たちが夜を徹して遊びをいたしております。私のような老人もまじって遊んでおりましたが、ちょっと物にもたれて居眠をしてしまったようです。そのとき、夢だったのか現だったのか、権現さまが現れて『私が尊敬しているお客人が、いまこの道をお通りになるので、丁重におもてなしをして差し上げなさい』と云われました。その夢がまださめ終わらないうちに、あなたが突然としてここにお姿を現されたのです。あなたはただ人であろう筈がありません。権現さまのお告げがそれを明らかに示しています」といって、聖人たちを丁重に招き入れ、とりどり
の珍味を用意しおもてなしをしたと記されています。
親鸞聖人御木像
  熱田神宮所蔵の享和三(1803)年に箱根権現別当金剛院執
事の名によって記された「相州箱根山安置親鸞聖人木像略縁起」は親鸞聖人が御自刻なさり箱根権現に残された御真影の由来と、
この御真影を安置していた別殿の再建の資材を募る旨が記され、再建慕財のため広く各方面に出されたことが推察されます。境内
に再建された別殿は親鸞堂と呼ばれていました。明治元年神仏分離令によって箱根権現が権現号を廃止し、箱根神社と改称した際に、金剛王院東福寺は廃寺となり、堂塔伽藍は打ち壊されましたが、金剛王院の本尊阿弥陀如来と親鸞聖人筆と伝えられる十字名号とともに、親鸞聖人像は萬福寺に移され難を逃れています。
聖覚法印と箱根権現
  箱根権現は鎌倉時代に書かれた『箱根山縁起』によると天平宝字元年(757)に鹿島神宮より万巻上人が来られ中興されたといいます。万巻上人は鹿島神宮の神宮寺(社中の寺院)を創建した満願上人と同一人物とされています。また「箱根権現」の最古の由緒書である鎌倉時代に書かれた『箱根山縁起』は当時の別当行実の名により興福寺僧信救(大夫房覚明)が記したと伝えられています。この信救は長野の康楽寺の伝承によると叡山に移り、そこで親鸞聖人と出会い、ともに法然聖人のお弟子となり西仏という法名をいただいたと伝えられています。信救は木曽義仲の軍師となり、太夫坊覚明と名乗ったとも伝えられてます。
  また「門葉記」所収の「大懺法院起請文」で建永元年(一二〇六)に、法然聖人門下で親鸞聖人の兄弟子であった聖覚法印が慈円和尚から箱根権現の管領を任せたとの記述のあることが指摘されています。 『箱根山縁起』を記したと伝えられる信救(大夫房覚明)が親鸞聖人と法然門下で同門であり、後に親鸞聖人のお弟子となったという伝承は「御伝鈔」の下巻第四段の背景にある箱根権現と親鸞聖人の縁を感じさせます。

慈眼山西照寺

箱根神社(箱根権現)・萬福寺