編集委員・酒井 淳


小田原市の東部にある国府津駅前には開業百年を記念して設置された「鉄道唱歌」のレリーフがあります。新橋横浜に敷設された鉄道は明治二十(一八八七)年延長され横浜・国府津間が開通しました。当時国府津駅は小田原・箱根への最寄り駅として多くの乗降客で賑わったといいます。国府津駅より国道一号に出て、西にしばらく歩くと、勧堂と掘られた石碑が建ち、その奥の湘南の海を望む地に大谷石で造られた小さな祠があります。ここが親鸞聖人七年ご逗留の伝承が残る「勧堂」です。
この勧堂には蓮如上人も東国を回られたおりに参拝されています。蓮如上人作と伝えられる謡曲「国府津」には「二十余年の星霜を重ね、辺鄙の群萌を済度せしむ。中にも相州足下の郡江津に、七年御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣申さず候程に、此度思い立ち彼の御遺跡へと趣き候」という一節があります。この「勧堂」を管理しているのは真宗大谷派の真楽寺です。謡曲「国府津」の版木はこの真楽寺に所蔵されています。

聖人七年ご逗留の伝承

蓮如上人の孫にあたる顕誓が編纂された『反古裏書』には親鸞聖人の関東での足跡を「常陸国下妻の三月寺小嶋に三年ばかり、同じく稲田郷に十年ばかりおられました。……そののち相模国足下郡江津の真楽寺また鎌倉にもおられたということです」と記しています。
江戸期に編纂された「大谷遺跡録」には「相州足柄下郡国府津勧山信楽院真楽寺は、高祖聖人御化導の旧跡也」と記し、「親鸞聖人が五十六歳の時、稲田郷にお住まいになりながら、ここへ通われました。貞永元年の秋八月聖人は常陸国を出て京へ向かわれましたが、相州国府津の里まで来られたところ、教えをうけた人々がここに引き留め親鸞聖人六十二歳八月までここに逗留されました。その時、平貞頼の招請により鎌倉へも時々いかれました」と記しています。「新編相模風土記」には「真楽寺は聖徳太子が開闢された、天台宗の古刹で、安貞年間親鸞聖人相模国をご教化された時、その時の住持性順が師弟の契りを結び、親鸞聖人のためにお堂(勧堂)を建て親鸞聖人は七年お住まいになられました。親鸞聖人はここを上足の弟子であった顕智にゆずられ帰洛されたと云います。親鸞聖人を開山とし、顕智を第二代、三世を是証と云うことです」と記しています。

名号を刻んだ帰命石

真楽寺には親鸞聖人が十字名号と八字名号を書かれたと伝えられる「帰命石」があり、現在境内の帰命堂というお堂の下に埋められているといいます。
「新編相模風土記」には「親鸞聖人がここにお住まいの頃、勧堂の下へ一切経を積んだ唐船が着岸しました。その船底に石八枚が積まれていました。親鸞聖人帰洛の時、末世の人々のためにその石に指で二つの名号を書かれました」とこの「帰命石」の由来を記しています。

唐船のバラスト

「水中考古学研究」に発表された林原利明氏の論文では、この石は「『新編相模風土記』等の記載からは一三三四(建武元)年以前にこの地に着岸した唐船が積んできた石(バラスト石の類)と考えることができる。中世において、小田原地域での中国船寄港の記録はほかにはないが、中世に相模湾を大型船が航行していた可能性をしめす資料の一つといえる。」と論じておられます。「新編相模風土記」には玉泉寺にある「経石」も「異国より経文を渡した時、船底に積まれた石で、国府津村真楽寺にある名号石と同じと云う」と記され、林原利明氏は同論文で実際に経石を調べられ「その由来に不確定な点もあるが、真楽寺の帰命石と同様に、中世相模湾海運の実態をしめす数少ない遺物のひとつである。」と論じておられます。

真楽寺・勧堂

慈眼山西照寺

真楽寺・勧堂