青蓮院      親鸞聖人のお得度の地

楠の古木
聖人の戒師慈円和尚
親鸞聖人は養和元(一一八一)年九歳の時、慈円和尚を戒師として出家得度されました。親鸞聖人はこの年より建仁元(一二〇一)年法然上人に従って専修念仏に帰入され比叡山を降りるまでの二十年間叡山の僧としてご修行されました。親鸞聖人の戒師であった慈円和尚は後に天台座主を四度も勤めますが、『愚管抄』の著者としても知られています。『親鸞聖人絵伝』で覚如上人は「慈円和尚の貴坊で剃髪された」と記されていますが、この慈円和尚が門主を務められた青蓮院が親鸞聖人得度の御旧跡とされています。
「門前には大きな楠木」
青蓮院の門前には「親鸞聖人得度聖地」という大きな石碑が建てられ、石碑と築地塀との間には大きな楠が枝を広げ石碑と参道を包んでいます。この大クスノキは京都市の天然記念物に指定され、東山魁夷画伯なども描いている風格ある古木です。この楠には親鸞聖人のお手植えという伝承があり、この伝承をうかがってこの古木を眺めてみるとまた深い感慨があります。
「天台宗三門跡の一つ」
青蓮院は妙法院(三十三間堂)、大原の三千院とともに天台宗の三門跡の一つで、東海道の京都への入り口にあたる粟田口にあるため粟田御所とも呼ばれています。青蓮院の起りは比叡山にあった青蓮坊だと伝えられています。比叡山延暦寺を開いた最澄は山上に僧侶の住坊をいくつも造られましたが青蓮坊はその一つでした。その後平安院政期に鳥羽上皇が当時の青蓮坊住持行玄大僧正に帰依し、院の御所に準じた里坊を三条白川に造営して青蓮院と改称したのだといいます。この青蓮院の門主を譲られたのが、鳥羽上皇の第七子で、出家し行玄大僧正の弟子となった覚快法親王で、その弟子が親鸞聖人の戒師慈円和尚です。青蓮院は天皇家や摂関家の出身の僧侶が多く門主となっていきますが、慈円和尚も関白九条兼実の弟にあたります。九条兼実は専修念仏を説いた法然上人に帰依し、法然上人の主著である『選択本願念仏集』は九条兼実の求めに応じて法然上人が口述されたものです。また法然上人のすすめで九条兼実の娘*玉日姫が親鸞聖人の妻となったという伝承もあります。

植髪堂
「宸殿に聖人得度の間」
青蓮院に拝観しますと、宸殿には「親鸞聖人得度の間」との木札が立てられています。また青蓮院の庭園は名園として知られています。境内小御所の北側には相阿弥によって作られた池を配した回遊式庭園と華頂殿の東側には小堀遠州が作った霧島の庭があります。このお庭を拝見しながら、華頂殿のお座敷では抹茶のご接待をいただくことができます。落ち着いた京都の町の雰囲気を漂わせる神宮道から、青蓮院の境内に入りますと現代の喧噪を離れた静寂な時間が流れる空間があります。ここでお抹茶をいただきながら親鸞聖人のお得度に思いを馳せてはいかがでしょうか。
「植髪堂には聖人の髪」
青蓮院の拝観者の入り口となっている医薬門を出た北側には植髪堂というお堂があります。ここは親鸞聖人が得度の折に剃り落とした髪を植えたと伝承された童形像がご安置されています。植髪堂内部の壁一面には親鸞聖人のご誕生からご往生までのご生涯の場面を描いた絵が掛けられています。このお堂では毎月四日と十四日の両日午前十時から四十分本願寺よりご講師がご出向になりご法座が開かれています。是非ご参拝下さい。
※玉日姫 室町期の写本が残る「親鸞聖人御因縁」と「御因縁秘伝抄」では親鸞聖人の妻を玉日姫としているが、玉日姫の存在は確かめられていない。

慈眼山西照寺

青蓮院