聖徳太子と親鸞聖人 太子の夢告

現在女性が皇位継承者になれるように皇室典範を改訂することが検討されているという報道を見ますが、皇室の歴史の中で十代八方の女性天皇が即位されています。最初に女性として天皇に即位されたのは推古天皇です。聖徳太子は摂政としてその推古天皇を支えました。聖徳太子の父は推古天皇の兄である用明天皇で母は蘇我馬子姪穴穂部間人で、聖徳太子には三人の妻がありましたが、その一人刀自古郎女は蘇我馬子の娘です。蘇我氏は大和王権内の崇仏派で廃仏派の物部氏と(*1)欽明十三(五五二)年百済の聖明王より欽明天皇に仏像と経典が献ぜられて以来仏教を受容するか否かで対立していました。
聖徳太子の父である用明天皇が崩御すると、皇位継承の対立から争いが起こり蘇我馬子は物部守屋を攻め滅ぼしてしまいます。その後崇峻天皇が皇位を継承しますが、崇峻天皇は蘇我氏と対立し暗殺されてしまいます。その崇峻天皇の後に皇位に就いたのが、崇峻天皇の姉であった推古天皇でした。
この様な政治状況の中聖徳太子は摂政となり、推古二(五九四)年「三宝興隆の詔」を発しています。この詔により、仏教が国の宗教としてとり入れられ、四天王寺や法隆寺が建立されました。



 磯長御廟

聖徳太子は四十九歳で亡くなり、母間人の埋葬された磯長の御廟に太子より一日早く亡くなられた妃の一人膳大郎女ととも埋葬されました。後にこの磯長の御廟を中心に太子信仰が広まっていきました。比叡山では聖徳太子を天台宗二祖の慧思禅師の再誕とし、また平安時代中期に編纂された「聖徳太子伝暦」の中では「母間人の夢に金色の僧が現れ、救世観音と名のり后の腹に宿った」という伝承が記され、太子は久世観音の化身とする信仰が広まっていきました。比叡山の僧として九歳より二十九歳までの二十年間修学された親鸞聖人にとって聖徳太子に特別な思いがあったことが推察されます。
また平安中期には磯長の御廟より「太子廟窟偈」という偈文が発見されました。
そこには太子自らを久世観音、后を大勢至、母を弥陀尊とし、末世の衆生を救わんがために身をこの廟窟に残す。この三骨一廟は三尊であり、一度参詣すれば極楽に往生することが定まると書かれており、太子信仰と浄土信仰がここに結びつき、磯長の御廟はさらに多くの人の信仰を集めるようになりました。親鸞聖人御自筆の「太子廟窟偈」の抄出が現在金沢市の専光寺に収蔵されています。

 太子の夢告

親鸞聖人は二十九歳の時聖徳太子創建と伝えられる京都の六角堂に参籠されました。そして九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得たことが、法然上人の禅室に行く契機となりました。この時に聖徳太子が示した文はこの廟窟偈の抄出とする説もありますが、諸説あり確定はできていません。また親鸞聖人は聖徳太子を讃仰した和讃を多数制作しています。そのなかで親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」と呼び、聖徳太子のすすめによって阿弥陀如来の誓願に遇うことができ、正定聚に住する身(浄土へ往生することが定まった身)となることができたとその恩徳を詠っています。
また高田専修寺に伝わる「三夢記」には建久二(一一九一)年親鸞聖人十九歳の折りに磯長の聖徳太子の御廟にて「我が三尊は塵沙の界を化す 日域は大乗相応の地なり 諦に聴け諦に聴け我が教令を 汝が命根は応に十余歳なるべし 命終わりて速やかに清浄土に入らん善く信ぜよ善く信ぜよ真の菩薩を」との夢告を得たことが記されています。この夢告は江戸期に五天良空によって編纂された「正統伝」にも記されていますが、中沢見明氏や赤松俊秀氏他多くの学者が後世の偽作とされそれが定説となっていました。しかし古田武彦氏は親鸞聖人自らの真作であると考証されています。
また磯長御廟に建てられた叡福寺境内には見真堂があり親鸞聖人が八十八歳の時参籠されその時に自ら刻まれたと伝承されている木造が安置されています。
(*1)日本書紀による説。元興寺縁起、上宮法王帝説による宣化三(五三八)年説がある

慈眼山西照寺

磯長御廟