嵐山・嵯峨野を歩く   二尊院界隈


 京都の北西に位置する嵐山・嵯峨野は桜や紅葉の名所で、京都を代表する観光スポットとして通年観光客でにぎわっています。嵐山・嵯峨野を訪れるには京福電鉄嵐山線を使うのが便利で終点嵐山駅は、嵐山・嵯峨野を訪れる観光客の起点となっています。
その嵐山駅から南へ少し歩くと渡月橋があります。この渡月橋の上流は大堰川・保津川と、下流は桂川と呼ばれ、その桂川は京都の南で宇治川、木津川と合流し、淀川となって大阪湾へと流れています。桂川は平安貴族が舟を浮かべ川遊びをした地として知られ、毎年五月にはこの様子が再現される三舟祭がおこなわれています。
嵐山駅から北には化野念仏寺へと至る落ち着いた散策ルートがあり、路ぞいには茶店や、工芸品を扱う土産物店などが点在し、散策する人々が足をとめています。この路を歩き、芭蕉十哲の一人向井去来の草庵跡の落柿舎から北へ歩くと紅葉の名所として知られる二尊院があります。
二尊院と法然上人
 二尊院は平安初期に嵯峨天皇が円仁に勅して建てられたと伝えられ、正式には「小倉山二尊教院華台寺」といいますが、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊をご本尊とするため二尊院と呼ばれています。総門は角倉了以が伏見城の「医薬門」を移築したと伝えられ、この門から延びる参道の紅葉は見事です。
二尊院は鎌倉初期には荒廃していたと伝えられていますが、法然上人がここに一時住んだことから、法然上人に帰依された九条兼実公の助力によって再興されました。四十三歳にして比叡山を降りた法然上人は、京都西山広谷に庵を結ばれますが、後に大谷の吉水草庵に移るまで、賀茂の河原屋、小松殿、嵯峨の二尊院を転々とされたといいます。
後に二尊院は法然上人のお弟子の一人である湛空上人に受け継がれました。この湛空上人は土御門天皇、後嵯峨天皇の戒師となり二尊院はますます栄えました。
親鸞聖人の署名
 また二尊院には「七箇条制誡」が伝わっています。「七箇条制誡」は「七箇条の起請文」とも呼ばれていますが、法然上人が門人達の行動を嗜める文を起草し門弟達に署名させたものです。親鸞聖人も自らの編纂した「西方指南抄」にこの「七箇条制誡」を収録していますが、二尊院に残る「七箇条制誡」はその原本といわれ、法然上人の弟子百九十人の署名があり、親鸞聖人は「僧綽空」と八十七番目に署名されています。
親鸞聖人は二十九歳にして法然上人のお弟子となり、専修念仏の門に入られますが、その三年後の元久元(一二〇四)年比叡山延暦寺の衆徒たちが専修念仏の停止を天台座主真性に訴えます。法然上人が比叡山を降り、専修念仏を時の人々に伝え始められてから約三十年が過ぎ、庶民だけではなく時の関白九条兼実公の尊崇を受け、幅広い人々が法然上人のもとに集っていました。法然上人は諸々の行を選び捨てて念仏の一行を往生極楽の行として選んだのは弥陀如来であると説かれました。念仏を修することは比叡山や興福寺を中心とする旧仏教の人々も認めるところですが、弥陀如来が全ての人を救うために持戒を含む諸々の行を選び捨てたということが、比叡山の衆徒の怒りをかったのです。
二尊院本堂には「七箇条制誡」の写しが置かれてあり、「僧綽空」の署名の箇所を拝見することができます

慈眼山西照寺

二尊院