京都岡崎界隈
享和元年(180王)に親鸞聖人のお住まいになったという伝承のあった地に開創されたのが真宗大谷派岡崎別院です。本堂の左には、聖人が越後へ配流される際にご自身の姿を映したと伝えられる「姿見の池」があり、その横には聖人お手植えと伝わる「八房の梅」があります。
近くには法然・親鸞両聖人にまつわる伝承が残っています。

岡崎の庵室 親鸞屋敷
江戸時代に編纂された親鸞聖人の伝記である『親鸞聖人正統伝』(以下『正統伝」)は、29歳で比叡山を下りて吉水の法然聖人の門に入った親鸞聖人が、岡崎のあたりに庵室をしつらえてお住まいになり、吉水へ通われたと伝えます。
また岡崎の里の西に、親鷲屋敷と呼ばれる地があると記しています。『正統伝』が編纂された江戸期には親鸞聖人にまつわる地名が残っていたようです。
『正統伝』では法然聖人門下当時の親鸞聖人のお住まいについて、「五条西洞院」と「岡崎」をあげています。
また、親鸞聖人は承元の法難に連座して越後へ流罪に処せられますが、『正統伝』は、岡崎の御坊より京の地を離れられたと記し、また関東から帰洛した親鸞聖人が、最初に住んだのもこの岡崎草庵だったと記しています。
『二十四輩順拝図絵』(以下『順拝図絵』)では、親鷲聖人が岡御坊に29歳より35歳までお住になり、御流罪後は荒れ果てましたが、60歳過ぎに帰洛されてからは九条家が修復し、五条西洞院にもお住まいになったと記します、
また、この地を「洛陽新黒谷南岡崎村」と紹介しています。

新黒谷
新黒谷には法然聖人ゆかりの戒光明寺があります。同寺は浄土宗鎮西派の寺院で、同派の七つある大本山の内のひとつです。京都では「黒谷さん」と呼ばれ、秋は紅葉の名所として多くの人が訪れます。
法然聖人は承安5年(1175)の43歳の時に、比叡山の西塔黒谷の経蔵で善導大師の著わされた『観経疏」にわけ隔てのない救いの道を見いだされます。それは経典を学び、厳しい修行によって仏道の成就を求める道ではなく、自らを含めいかなる人も阿弥陀仏によって平等に救われるお念仏の道でありました。
金戒光明寺には「法然上人が四十三歳の時お念仏の教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことからこの地に草庵をむすばれた。これが浄土宗最初の寺院となった」と伝えられています。
『順拝図絵」は、新黒谷の金戒光明寺の地は法然聖人が33歳にして隠遁された地だと記します。法然聖人が永万元年(1165)に近衛坂に草庵を結ばれ、一切経を何回も読まれたと諾伝は伝えますが、近衛坂は金戒光明寺とその側にある真如堂(天台宗)の間と記しています。
真如堂
金戒光明寺に隣接して真如堂があります。永観2年(984)叡山の戒算上人が比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(伝慈覚大師作)を東三条女院の離宮があった現在の地に移したのが始まりといいます。正式には「真正極楽寺」といいます。
真如堂の書院には「親鸞聖人坐像」が安置されています。親鸞聖人が六角堂に通われる折りに、参詣されたという伝えられています。

慈眼山西照寺

京都岡崎