法福寺 

 恵信尼公のご消息(手紙)に親鸞聖人が三部経千部読誦を始められ思い返して中止された地として「さぬき」が記されています。現在「さぬき」は法福寺のある板倉町という説が有力です。

三部経読誦

大正10(1921)年冬、本願寺の蔵より親鸞聖人の内室恵信尼公が末娘の覚信尼公に宛てて書かれた消息(手紙)が発見されました。親鸞聖人ご往生の翌年、弘長3(1263)年2月10日付けのお手紙の中で「寛喜3(1231)年(親鸞聖人59歳)の時、(聖人が)風邪をめされて、熱が出て体が火のように熱くなって、頭痛もひどくいらっしゃいました。病に臥して4日目の暁に苦しみの中『まはさてあらん』と仰いました。うわごとを申されたのでしょうかと(恵信尼公が)申しますと、(親鸞聖人が)臥して2日目より常に大経を読んでいた。目を閉じると教典の文字が一字も残らず、つぶさに見えた。これはおかしなことだ。念仏の信心の他になにが心にかけることがあろうかと考えてみると、16、7年前に誠実に三部経を千部読誦して、衆生利益のために読誦し始めたところ、自から信じ人を教えて信ぜしむることが本当に仏恩に報いることだと信じながら、名号(南無阿弥陀仏)の他に何が不足で、経典を読誦しようとするのかと思い返して読誦をしなかったことが、いまだに残っていたのだろうか。人の執心、自力の心はよくよく考えなければならないと思い直してから教典を読むことが止まった。そのようなことで臥して4日目の暁に『まはさてあらん』と申したのだと仰せられました。そして汗が流れて恢復されました」(趣意)と記され、続いて「三部経を誠実に読誦しようとしたことは、信蓮房が四歳の時、武蔵国か上野国かさぬき(佐貫)というところで読誦し始めて4、5日で思い返して読誦を止めて、常陸国にお出でになったのです」と書き「信蓮房は今年53歳になったと記憶しています」と記されています。この記述により親鸞聖人が越後より常陸に来られたのが健保2(1214)年であることが確定されました。


石碑
板倉町法福寺

このご消息が発見されてから親鸞聖人が三部経千部読誦を思い立たれた「さぬき」という地がどこであるか諸説がだされました。その中でも群馬県邑楽郡明和村佐貫説か有力でした。しかし明和村佐貫の地に親鸞聖人の伝承が全く残っていないことから知切光歳氏は疑問を持ち、佐貫荘の地域の地誌を調べたところ板倉町にある法福寺(新義真言宗・現在無住)にて親鸞聖人の直弟性信房の座像が発見されたことを見つけました。法福寺には、親鸞聖人ご逗留の伝承があることが判り、現在では板倉町説が最も有力な説です。
『上州館林伊豆山後又号大同山観音院宝福寺縁起』には同寺を聖徳太子の開基とし、かつて常行堂(阿弥陀如来を安置し不断念仏を修するお堂)、聖徳太子自刻の像を安置した大師堂、三重塔(塔内に如意輪観音)があったとし、恵心僧都によって常念仏が始められ今に至るまで絶えることがないと記されています。法福寺の宝庫には昭和35五(1960)年に板倉町の民俗調査で発見された「性信房座像」が安置されています。法福寺はかって広大な寺域を持ち、江戸期には徳川家の保護も受けていましたが、明治に行われた廃仏政策で打撃を受け、大正期には無住となって伝承も途絶えてしまっていました。
法福寺の墓地に寛政8(1796)年に建てられた碑があります。碑には「親鸞聖人直作阿弥陀如来像 聖徳太子像 玉日像 性信上人古蹟」と刻まれ江戸日本橋の同行が建てたと記されています。この時期まで親鸞聖人と性信房の旧跡として巡拝がなされていたことが判ります。
同寺縁起には「親鸞聖人越後より常陸へ行く時、この寺に参詣された。その時湖水に大蛇がいて人を苦しめていた。聖人はお弟子の性信御房を残し、自刻の像を付属されて常陸へ行かれた」と伝えています。


性信房座像(県指定重要文化財)
水害と揚舟

板倉町は利根川と渡良瀬川に挟まれ、町の東には栃木・群馬・茨城・埼玉の県境に位置する渡良瀬遊水池があります。この地は低湿地地帯で度々水害に襲われました。地域の人々は自らの命や財産を守るために母屋や納屋の天井・軒下などに揚舟を保管し水害に備え、水害時には揚舟を軒下から降ろして、水塚や高台に非難しました。
親鸞聖人は水害に襲われ苦しむ人々に接せられて三部経の読誦を思いたたれたのかもしれません。しかし、それは根本的な苦悩の解決には繋がらないと思い直し、この地の人々のために直弟子性信房を残されたのかもしれません。

慈眼山西照寺

法福寺