親鸞聖人の足跡を訪ねて ― 箱根編 ―箱根権現
編集委員 酒井 淳

正月二日、東京の大手町から箱根までの往路と、翌三日、逆ルートの復路を十区間に分け、大学生が「たすき」をつなぐ箱根駅伝が行なわれます。今年は一九二〇(大正九)年の第一回大会から数え七十九回、昨年より五校多い二十校が優勝を競います。毎年テレビに映し出される「たすき」をめぐるドラマは、私たちに感動を与えてくれます。
箱根駅伝往路の芦ノ湖畔のゴールから、一キロ半ほど湖畔ぞいに北へ歩くと「箱根神社」があります。ここは明治の廃仏棄釈までは「箱根権現」と呼ばれていました。今でも地元の人々は親しみを込めて「権現さん」と呼んでいます。
「箱根権現」は鎌倉時代に書かれた『箱根山縁起并序』によりますと常陸の「鹿島神宮」の神宮寺(社中の寺院)の住職であった万巻上人によって七五七(天平宝地元)年に開かれています。
親鸞聖人のお弟子として『二十四輩牒』に記載されている性信や順信はその「鹿島神宮」の神官一族の出とされています。覚如上人によって書かれた「御伝鈔」の第十二段には、京都にお帰りになる親鸞聖人に箱根権現の神官が権現の示現を受けて、親鸞聖人をもてなしたことが記されています。
平松令三氏(真宗史)は本願寺出版の「聖典セミナー『親鸞聖人伝絵』」で、『箱根町誌』に一二〇六(建永元)年に、青蓮院門跡慈円が伊豆山と箱根山の支配を安居院聖覚に任せたとの記述のあることを指摘され、もしこれが事実だとすると聖覚法印と親鸞聖人は親密な関係があったために、聖覚の指示を受けた箱根権現の神官が、聖人を丁重にもてなしたことは十分に有り得るとされていますが、『町誌』の根拠となる資料が確認できないため、「現段階では一説として紹介するに留め」ると記されています。
箱根神社の『宝物殿』には、親鸞聖人がお礼に自ら彫ったと伝えられる『親鸞聖人像』が展示されています(拝観料三百円)。
また箱根関所跡から箱根登山鉄道と平行して走る国道一号と畑宿入り口で別れ旧東海道の石畳を、二キロほど寄木細工で有名な畑宿方面へ下ったところに「笈ノ平 親鸞聖人御旧跡 性信御坊決別之地」と刻まれた大きな石碑があります。「笈ノ平」は関東を後にして京都にお帰りになる親鸞聖人に付き添って来られたお弟子の性信が、聖人御愛用の笈を譲り受け、別れた地とされています。「笈ノ平」から三百メートルほど芦ノ湖方面に戻ると、箱根旧街道資料館と箱根越えの旅人たちが休憩した甘酒茶屋があり、観光客で賑わっていました。

慈眼山西照寺

箱根権現