親鸞聖人のご旧跡を訪ねて ―越後編―五智国分寺 


 一二〇七(承元元)年、親鸞聖人三十五歳の時、朝廷により、法然上人門下の専修念仏者に対する弾圧が行われ、法然上人は土佐(実際は阿波に留まった)へ、親鸞聖人は越後への流罪に処せられた。門弟四名が死罪となり、法然上人と親鸞聖人を含む八名が流罪という厳しいものであった。
 親鸞聖人は僧籍を奪われ、朝廷より俗人として藤井善信の名をあたえられるが、自ら「非僧非俗」の念仏者として「禿」の字を姓としたと「教行信証」で述懐している。単なる流人ではなく専修念仏者として民衆とともに歩む名乗りが「愚禿親鸞」であった。
 越後国府に流された親鸞聖人の一行は、北陸道を通り親知らずを越え、木浦より船に乗り直江津の西に位置する居多ヶ浜に上陸されたと伝えられている。居多ヶ浜には「親鸞聖人御上陸之地居多ヶ浜」と刻まれた碑が建ち、碑の奥には親鸞聖人御上陸居多浜記念堂と見真堂が並んで建てられている。ここへは直江津駅からタクシーで約五分、メーターがひとつ上がる程度の料金で行き着くことができる。
 居多ヶ浜周辺には親鸞聖人の足跡を伝える旧跡が点在している。ここから南に三分程歩くと五智国分寺の裏門にたどり着く。
 五智国分寺の境内には、親鸞聖人が最初の一年を過ごされた「竹の内草庵跡」がある。裏門を入ると左手に親鸞堂があり、堂内には隣接する鏡が池に自らの姿を移して彫ったと伝えられる「親鸞聖人座像」が安置されている。親鸞堂の脇には「竹の内草庵跡」の石碑が玉垣に囲まれてひっそりと建ち、国分寺の東側には聖人が竹の内草庵での生活に用いたと伝えられる養爺清水が水をたたえている。
 国分寺の山門を出て数分歩くと光源寺(大谷派)の裏門に出る。光源寺の本堂には「流罪勅免御満悦御影」や各地にある親鸞聖人の銅像のモデルになった「旅立の木像」などの宝物が安置されている。南に数分歩くと本願寺国府別院の参道に至る。参道右手には「小丸山御旧跡」の石碑が建つ。竹の内草庵に続き親鸞聖人が関東へと旅立つまで六年の月日を過ごしたと伝えられる「竹が前草庵」の跡地である。この地で親鸞聖人は恵信尼公と過ごされたといわれている。
 聖人配流の地を巡る起点となる直江津駅前には作家・林芙美子が『放浪記』に書いた「継続だんご」を売る三野屋がある。
 また直江津駅より信越線に乗り、二つめの高田駅から南高田駅にかけては高田の城下町の雰囲気を残す雁木の続く町並が続く。その中に創業三百七十年の老舗高橋孫左衛門商店がある。
 この店は『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九の道中記『金の草鞋』にも紹介されている飴屋さんである。もち米を原料にして精製した粟飴は茶褐色透明な水飴の元祖で、透明な水飴は当時の人々を驚かせ評判になった。その製造の秘密を守るために粟飴と名づけたという。十返舎一九の紹介した通りの製法で今も作られていて高田の名物として今も名高い。

慈眼山西照寺

五智国分寺