嵐山・嵯峨野を歩く 清涼寺・月輪寺
 
月輪寺
 清涼寺と法然上人
渡月橋から京福嵯峨野駅へと続く道を北へ上がり、JRの線路を越え、さらに北へ歩くと清涼寺の山門に出ます。
清涼寺は嵯峨の釈迦堂と呼ばれ京の人々に親しまれてきました。清涼寺の境内はもと嵯峨天皇の皇子で左大臣となった源融の別荘棲霞観でした。源融は浄土信仰を持ち晩年阿弥陀如来像の造立を発願しましたが、完成を待たずに亡くなったため彼の子によって棲霞観の敷地に阿弥陀堂が建立されました。これが後に棲霞寺になったと伝えられています。清涼寺境内に現在建つ阿弥陀堂の阿弥陀如来はこのとき造立された像であるといいます。
阿弥陀堂の建立から百年ほど経った寛和三(九八七)年東大寺の僧然が宋でインドより招来した生身の釈迦如来として信仰を集めていた釈迦如来像を模刻し日本に持ち帰りました。インド、中国、日本と三国伝来の釈迦として僧然の招来した釈迦如来像は幅広い人々の信仰を集めました。この像が後に棲霞寺の境内に建てられた清涼寺に安置されたのです。
清涼寺の釈迦如来像に保元元(一一五六)年、二十四歳の法然上人は七日間参籠されています。参籠はお堂に籠もり仏に祈願する風習で、当時多くの僧侶が仏道を成ずる道を参籠によって祈請しました。親鸞聖人が法然上人の下へ行かれる契機となったのも、六角堂への参籠でした。

清涼寺山門
 月輪寺と九条兼実
また僧然は宋で五台山へ巡礼し、帰国してから嵯峨野の北に位置する愛宕山の五つの峰に日本の五台山を建立することを計画しています。然の存命中にはその計画は実現されませんでしたが、後に朝日ヶ峰、大鷲ヶ峰、高尾山、竜上山、鎌倉山の五峰全てに寺が建てられました。しかし現在は鎌倉山の月輪寺が残るだけです。平安時代民衆に念仏をひろめた空也もここ月輪寺で修行しています。月輪寺に上る登山口わきの沢を上がると落差十二メートルもある滝があり、空也滝と呼ばれています。またここ月輪寺には法然上人に帰依された九条兼実が出家し隠棲しています。親鸞聖人が法然上人に書写を許された『選択本願念仏集』はこの兼実公の求めに応じて撰述されました。兼実公は月輪寺に法然上人を招き、教えを受けたといいます。法然上人は月輪寺にて「月かげの 至らぬ里はなけれども 眺むる人の 心にぞすむ」と詠まれたと伝えられています。またここ月輪寺には兼実公、法然上人、親鸞聖人に因む伝承があります。承元の法難で専修念仏に対する弾圧が行われ、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後へと流罪に処せられましたが、法然上人と親鸞聖人は流刑を待つ間に月輪寺に兼実公を訪ね別れを惜しんだというのです。この時兼実公、法然上人、親鸞聖人の三人はそれぞれ自らの像を彫ったと伝えられ、現在月輪寺に伝わる九条兼実、法然上人、親鸞聖人の木像はその時に刻まれた像だというのです。
 親鸞聖人のお手植えの桜
また親鸞聖人は山より桜の苗を堀り、境内に植えられたといいます。この桜が現在本堂前のしぐれ桜だというのです。その桜は毎年四月から五月にかけてしずくを垂らすというのですが、これが親鸞聖人が別れを憂えての涙だと伝承されています。

慈眼山西照寺

清涼寺・月輪寺