聖人が踏みしめられた大地に建つ西念寺
稲田ご草庵

 笠間時朝と宋版一切経

親鸞聖人が越後より関東に移住された理由については様々な説があり定かではありませんが、赤松俊秀氏は常陸笠間の領主笠間時朝が鹿島社に、宋版一切経を奉納したことに着目され、教行信証の執筆のために、一切経のあった関東に来られたという説を提唱されました。
笠間時朝が宋版一切経を鹿島神宮に奉納したのは建長七(一二六五)年ですから、聖人が九十歳でご往生された後のことですが、赤松氏は稲田の姫社などに一切経が奉納されていた可能性を指摘されています。
笠間時朝は宇都宮氏の一族です。宇都宮氏は関白藤原道兼の曾孫宗円が「前九年の役」に際し下野に下り、宇都宮石山寺座主になり、彼の子孫が宇都宮を拠点として豪族として力を蓄えていきました。宇都宮朝綱は源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府の有力御家人として下野宇都宮に館を構えていました。朝綱は後に出家し、益子上大羽に阿弥陀堂を建てています。


西念寺山門
法然上人の弟子蓮生

また朝綱の子頼綱は出家し蓮生と名のり後に法然上人の弟子となっています。法然上人ご往生十五年後に起こった嘉禄の法難の際、蓮生は比叡山の衆徒が京都東山大谷にあった法然上人の墓を暴き鴨川へ流そうとの企てに対し、弟の信生とともに法然上人の遺骸をまもり、嵯峨の二尊院に移しています。

宇都宮氏の笠間進出

元久二(一二〇五)年に常陸笠間の三白山正福寺と七会布引山徳蔵寺の僧との間に争いが起こりました。宇都宮頼綱は正福寺方よりの援軍の要請により甥の時朝を派遣し、この争いに介入し徳蔵寺を滅ぼし、後に正福寺をも滅ぼして笠間に進出しています。時朝は承元元(一二一九)年から嘉禎元(一二三五)年までの十六年をかけて笠間の三白山に城を築きますが、ちょうど親鸞聖人が稲田にてご教化された時期と重なります。この時、時朝の副将となったのが、後に親鸞聖人の弟子となった九郎頼重で、稲田を所領とし稲田姓を名乗ります。西念寺伝ではこの稲田九郎頼重が親鸞聖人を稲田に招請したと伝えています。また寺伝には稲田九郎頼重は頼綱の末弟と伝えていますので、この伝承通りだとすれば笠間時朝の叔父ということになります。


御絵伝下巻第二段稲田興坊

稲田西念寺には法然上人に帰依した蓮生(頼綱)が稲田の頼重に宛てた書簡が伝わっています。「壮勇の御身武衛の奉務是非なしといえども、浮沈の世勢忘失あるべからず候 こい願わくは 仏の道を 仰ぎたまわば 一身の渇望これに過ぎず候」と書簡にて蓮生は頼重に仏法聴聞を勧めています。
また蓮生は『新古今和歌集』の撰者藤原定家と深い親交を持つ歌人でもありました。定家が多くの歌人の歌を一首ずつ色紙に書いて蓮生に送ったものが『小倉百人一首』の原型になったと云われています。先の書簡には「ものの夫の身ぞ浮嶋や信太潟の 波立つごとに世を厭えかし」という蓮生自らの歌と、恵心僧都作と伝えられる「夏衣ひとえに西をおもうかな うらなく弥陀をたのむ身なれば」という二首の歌が記されています。西念寺ではこの書簡が頼重をして親鸞聖人を稲田に招く機縁になったと伝え、恵心僧都の歌の「西をおもう」より西念寺と号したと伝えています。


西念寺住職 稲田寛乗師
稲田ご草庵

聖人の曾孫である覚如上人の著された『御伝鈔』には「越後より常陸に来られ笠間の稲田郷にひっそりとお住まいになった。住まいの戸をたとえ閉じていても僧侶や一般の人々が溢れるように集まった」と聖人のご教化の様子を記しています。この稲田の草庵が西念寺であると室町期の西念寺に伝わる古絵図には記されています。この稲田を中心に親鸞聖人は二十年に渡り関東の人々をご教化になったのです。

慈眼山西照寺

西念寺