親鸞聖人の足跡を訪ねて――――鹿島神宮
鹿島明神が親鸞聖人に井戸を献ず

編集委員・酒井 淳


 
鹿島神宮
「承元の法難」によって越後に流罪になった親鸞聖人は建暦元(一二一一)年流罪を赦免されましたが、京都には戻られずに二年間越後に止まられ、健保二(一二一四)年妻子を伴って、関東の地へお移りになられました。
関東移住の動機は諸説あり定かではありませんが、赤松俊秀氏は『教行信証』執筆のために一切経があった関東に移られたと提唱されました。赤松氏は稲田を所領していた笠間時朝が建長七(一二五五)年に『唐本一切経』を鹿島社に奉納した事実を挙げられ、それ以前に本領の稲田の姫社などにも同様に宋版の『大蔵経』が奉納されていたのではないかと推察されています。
鹿島神宮と春日大社
鹿島神宮は鹿島灘と北浦に囲まれた水郷の丘陵地に位置する常陸国の一宮です。中臣鎌足が鹿島の中臣氏の出であることから、鹿島社の祭神は奈良の三笠山に迎えられ、藤原氏の氏神とされました。これが春日大社です。藤原氏が天皇の外戚として実権を握るようになると朝廷からも毎年「鹿島使」という勅使が毎年送られてくるようになりました。親鸞聖人の生まれた日野家も藤原氏の一族でありました。
鎌倉時代には源頼朝の信仰を得、鹿島社は武神として武士の信仰も集めました。
奈良の大仏の造立が行われた天平勝宝年間(七四九〜七五七)には遊行僧満願上人が大般若経六百巻を書写し、仏画を写し鹿島神宮に神宮寺(鹿島山金蓮院神宮寺)を建てたという記録があります。『御伝鈔』は親鸞聖人が京都への帰路箱根権現に立ち寄られたエピソードを記していますが、箱根権現を開いた万巻上人と鹿島神宮の神宮寺を建てた満願上人とは同一人物だと言われています。板東性純氏は「八世紀に満願上人によって造られたその寺院が十三世紀ともなりますとざっと四五十年です。その四五十年の間には相当の仏教ライブラリーになっていたと思います。親鸞聖人に関してたくさんの説話があって、そのなかに鹿島神宮にお参りしたという説話がありますが、これは神さまに敬意を表するために鹿島神宮にいかれたのではなくて、お目当ては神宮寺のライブラリーであったと思います」と対談の中で話されています。

鹿に乗られる親鸞聖人の図『無量寿寺蔵』
親鸞聖人直弟子と鹿島神宮
また二十四輩の第一に挙げられる性信房は報恩寺の縁起では鹿島神宮の宮司家の大中臣氏の出とされ、また江戸期に編纂された『大谷遺跡録』には二十四輩の第三に挙げられる順信房開基の無量寿寺は、親鸞聖人が稲田から鹿島神宮への往復の途中禅宗の無量寺に立ち寄られ浄土真宗の無量寿寺としたと伝えています。その順信房は無量寿寺に伝わる『大中臣氏系図』では信親が出家し順信となったと記しています。この当時まで大中臣氏は鹿島神宮の大宮司職を中臣氏と交互に勤めていました。順信房も鹿島社の宮司家に列なる人物であったと推察されます。
『大谷遺跡録』の「鹿島大明神」の項には「親鸞聖人が五十七歳の時数日間ご説法をなされた時、気高い白髪の翁が聴聞し、大変喜んで、剃髪し、聖人より信海という法名を賜った。その翁は聖人の法を弘める地に水を献ずると言って去ったが、後に稲田の御坊と高田の如来堂の両所に水が涌いた。人々が翁の跡を訪ねると鹿島社の中に消え、後に片岡信親が社頭を開けると、その法名が歴然としてあった。聖人のご化導が明神にまで通じた」と記しています。『二十四輩参拝図絵』には「神官であった信親に『親鸞聖人の弟子となり井戸を献じた。錦を稲田の御坊に持参し献ずるように』との(明神よりの)宣託があり、信親は驚き神殿に行くとお戸帳の中に釈信海という法名があり、早速信親が稲田の御坊に行くと宣託のとおりに泉が涌いていた。信親は錦を親鸞聖人に献じ、弟子となった」と記しています。
鹿島門徒
順信房のもとには、鹿島門徒と呼ばれる信徒集団が形成されますが、鹿島門徒は鹿島社の信仰域に沿って展開したとも言われています。明治の廃仏棄釈で鹿島神宮から仏教色は一掃され、今では境内の鹿園奥に『親鸞聖人旧跡』を示す木札があり、ここが神宮寺跡で親鸞聖人が訪れたと伝えられ、かつて小石に経文を書いた『親鸞聖人お経石』が出土したと記しているのみですが、鹿島神宮の信仰者と親鸞聖人には浅からざる結びつきがあったことが推察されます。
善鸞大徳の鹿島神宮参詣
親鸞聖人は晩年御子息の善鸞大徳を関東に派遣しました。その善鸞大徳は後に異義事件を起こし、建長八(一二五六)年に親鸞聖人より義絶されてしまいました。その善鸞大徳と親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が関東で出合ったことが、覚如上人の伝記『慕帰絵』と『最須敬重絵詞』に記されています。その一つに善鸞大徳が二三百騎の僧尼を従え、親鸞聖人より賜った十字名号を首に掛け、ひたすら念仏をされながら、小田知頼の鹿島神宮参詣の伴をされているのを覚如上人がご覧になったというものです。これは義絶された善鸞大徳のことですが、親鸞聖人の鹿島神宮へ行かれたという伝承と繋がるものがあるのかもしれません。

慈眼山西照寺

鹿島神宮