小島の草庵・千勝神社

 親鸞聖人は42歳の時越後から関東に移られ、それ以降約20年関東でご教化されています。小島の草庵には関東に来られ最初の3年ご滞在になったという伝承があり、ここにかつて三月寺という寺がありました。
小島の草庵大銀杏
小島草庵

『御伝鈔』は「(親鸞聖人が)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郡といふところに隠居したまふ」と記し、越後から稲田へ直接行かれたとしています。永禄11(1568)年顕誓によって編纂された『反故裏書』は『御伝鈔』の記述を引用しつつ「常陸国下妻の三月寺小嶋に3年ばかり、同じく稲田郡に10年ばかり御座をなされぬ。此は筑波山の北のほとり、板敷山のふもとなり。そののち相模国足下郡江津の真楽寺、又鎌倉にも居し給ふとなり」と詳しくその所在を記し、小島に最初の3年間ご滞在になったと伝えています。
江戸中期に編纂された『高田絵伝撮要』は親鸞聖人「常陸国下妻小嶋の郡司の館につきたまふ」と記しその理由を「法然上人在世の時、下野の守護小山殿上京し、吉水の禅室に参詣した折に、法然上人とともに親鸞聖人に対面した。その時親鸞聖人が詳しく往生道を示された」その縁により小山氏の一族であった「下妻氏などの要請によって親鸞聖人が常陸に居住なされれるようになった」と記しています。
『二十四輩参拝図絵』の小島三月寺の頁には「建保2年に親鸞聖人は小島郡司武弘の招請に応じ、この地に下向し、禅房を設けて健保5年まで本願念仏を弘められた」と記し、その禅房はその後「常隨の弟子であった蓮位房が三月寺に住み、教え導いた」と記しています。

蓮位房は聖人の最晩年まで常隨し、『御伝鈔』には建長8(1256)年親鸞聖人84歳の時蓮位房が親鸞聖人が阿弥陀如来の化身であるとの夢を見たことが記されています。
三月寺

現在小島草庵跡は市の指定文化財となっています。小島草庵跡には親鸞聖人お手植えと伝えられる大銀杏が枝を拡げています。この大銀杏は東北の稲田の方角に枝を伸ばしていることから「稲田恋しの銀杏」とも呼ばれています。
この銀杏の正面には「親鸞聖人御旧跡」と刻まれた石碑が建ち、銀杏の裏側には4基の小さな五輪塔が並んでいます。
『常総誌略』は三月寺はかつて三皇院という寺で欽明天皇、用命天皇、聖徳太子のお墓があったが、後に親鸞聖人のお墓を加えて四体仏と呼ぶようになったと伝えています。三皇院は建保3年三ヶ月間親鸞聖人が法話をされたので三月寺と改めたとも伝えてます。

恵信尼公の夢

鎌倉期には小島の草庵の東北に幸井郷という郷があり、現在は坂井という地名が残っています。恵信尼公の消息(お手紙)には常陸の下妻さかい郷の夢を見た事が記されています。現在坂井には千勝神社という社があり、恵信尼公が見た夢の場所はここではないかと言われています。その夢は下妻さかいの郷で堂供養があり、鳥居のようなものに仏を掛けてありました。その場にいた人が恵信尼公にひかる仏は法然上人で勢至菩薩であり、もう1体の仏は観音菩薩で善信の御房(親鸞聖人)だと告げたという夢です。後に恵信尼公は親鸞聖人に法然上人が勢至菩薩だという夢を見たことを告げるとそれは本当の夢だと親鸞聖人が仰り、恵信尼公は言葉には出さなかったが心の中で親鸞聖人のことを観音菩薩と思っておられたと娘の覚信尼公に伝えておられます。

慈眼山西照寺

小島の草庵・千勝神社