慈眼山西照寺

日野の里










親鸞聖人ご誕生の地
             

日野誕生院


平安様式が取り入れられた本堂
親鸞聖人は承安三(一一七三)年にお生まれになりました。覚如上人がご制作になった『親鸞聖人絵伝』には親鸞聖人の俗姓は藤原氏で有範公の子であると記されています。
有範公は藤原北家に連なる日野家の一員でした。御絵伝では有範公は有国の「五代の孫」と記されています。有国公は『栄華物語』の主人公にもなった関白藤原道長時代の公家でした。

道長の浄土信仰

藤原道長は法成寺を創建し、伽藍の整った法成寺に間口十一間の無量寿院を設け九体の丈六の阿弥陀如来像を安置しています。また道長は『往生要集』を著わされた源信僧都(親鸞聖人がお念仏を自らに伝えて下さったインド、中国、日本の七高僧の六人目に挙げられる)を大変尊敬し、晩年は出家し浄土教に帰依していきます。死期の迫った道長は九体の阿弥陀如来のみ手に繋がれた糸を握り往生を願っています。現世で栄華を極めた道長は現実に浄土の光景を法成寺に作り出し、その御堂の中で往生を願ったのです。
これ以降源信僧都によって大成された天台浄土教は平安貴族の間に広く受容され、院政期を通じて数多くの阿弥陀堂が各地に建立されていきました。『親鸞聖人絵伝』に記された日野有国は道長の父兼家に臣従し、道長にも重用されています。また有国の名は源信僧都が指導された念仏結社『勧学会』にも見いだせます。


法界寺阿弥陀堂の建立

有国の子資業は永承六(一〇五一)年に日野家の祖真夏以来の領地であった日野に法界寺を建てました。法界寺にはその後次々に阿弥陀堂が建立され、最盛期には四棟もの阿弥陀堂が法界寺の境内にあったことが諸文献で確認されています。
法界寺創建の翌年宇治の平等院が関白藤原頼道によって創建されていますが、この寺は父道長の別荘を寺院としたものです。十円硬貨に図柄として採用されている宇治の平等院の鳳凰堂にはやはり定朝作の丈六の阿弥陀如来が安置されています。
このような平安貴族による阿弥陀信仰の高まりの中、親鸞聖人は藤原氏の一流である日野有範公の子として生を受け、日野家の浄土信仰を受けつつ幼少時代を過ごされたことと推察されます。

日野誕生院


現在法界寺は真言宗醍醐派に属しています。その境内の一部を幕末の文政九(一八二六)年当時の十九代宗主本如上人が譲り受け、次の二十代宗主広如上人が文政十一(一八二八)年有範堂を建立しています。
この日野の地に広如上人は親鸞聖人の誕生日とされている四月一日に参詣されています。明治五(一八七三)年明治政府が太陰暦から太陽暦に改めた際、太陽暦に換算して、五月二十一日が聖人のご誕生の日となりました。
大正十二(一九二三)年立教開宗七百年に際し有範堂大改造が計画され、昭和六(一九三一)年に本堂が落成し、この折りに日野誕生院と改称されました。日野誕生院の本堂は一般の真宗寺院とは異なり平安様式を取り入れて建てられ、本尊阿弥陀如来の両脇には親鸞聖人六歳の幼像と父日野有範公の木像が安置されています。
また誕生院の境内には聖人の産湯に使ったと伝えられる産湯の井戸と胞衣塚などがあります。

日野家廟所

誕生院、本堂の東側には日野家の廟所があり、日野有範(聖人の父)範綱(有範の兄)覚信尼(聖人の末娘)広綱(範綱の子・覚如上人の祖父)勝光(日野冨子の兄)などの墓があります。是非ご参拝ください。