親鸞聖人ご往生の地 角坊別院

帰洛後のお住まい
親鸞聖人が関東を去り、京都にお戻りになった時期ははっきりしませんが、六十歳前後だといわれています。親鸞聖人の曾孫の覚如上人の著わされた絵伝『親鸞聖人絵伝』には「右京、左京のところどろこに移り住まれました。五条西洞院あたりを大変気に入られて、しばらく住われました」と記しておられます。
また『絵伝』では「昔関東にて親鸞聖人に直接教えを受けた門徒たちがそれぞれ聖人との昔日のよしみを慕い、路を尋ねつつ聖人のもとに集いました」と記しています。
高田専修寺に伝わり江戸期に開版された親鸞聖人の伝記『親鸞聖人正明伝』には「ある時には二条富小路、ある時は一条柳原、または三条坊門富小路、河東岡崎、あるいは吉水あたりにも隠れ、清水などにもお住まいになった。五条西洞院の禅坊を聖人は常の住居とした」と移り住まれた具体的地名が記されています。
江戸期に高田派の学僧五天良空によって編纂された親鸞聖人の伝記『親鸞聖人正統伝』も『正明伝』の記述を受け、「六十四歳にて五条西洞院にお住まいになられましたが、日がたつにつれ、関東の門弟のおもだったものたちが尋ね来るようになったので、ある時は岡崎、二条冷泉富小路、ある時は吉水、一条柳原、三条坊門、富小路など所々に移り住んだ」と具体的地名を記して親鸞聖人が京都の諸所に移られたと記しています。
現在下京区松原通西洞院に大谷派の光円寺がありますが、五条西洞院のお住まいの御旧跡と伝えられています。
火災に遭う
建長七(一二五五)年十二月十五日付けの親鸞聖人のご消息(手紙)には「この十日の夜、火災に遭いました。(円仏坊が)この状況の中よく訪ねてくれました」と記されています。このご消息により親鸞聖人が八十三歳にして火災に遭われたことが判ります。火災に遭われた聖人は弟である尋有僧都の「善法坊」に身を寄せられたようです。
関東より度々上京され、親鸞聖人のご往生にも立ち会われた親鸞聖人の直弟子で高田派の第三代の顕智上人は聖人より「獲得自然法爾御書」という法語を書き取られておられます。その奥書に「正嘉二歳 午十二月日 善法坊僧都御坊三条トミノコウチノ御坊ニテ 聖人ニアイマイラセテノキゝカキ ソノトキ顕智コレヲカクナリ」とあり正嘉二(一二五八)年に顕智上人は八十六歳の親鸞聖人と善法坊でお会いしていることが判ります。
親鸞聖人ご往生の地
親鸞聖人は弘長二(一二六二)年九十歳にてご往生になられました。『親鸞聖人絵伝』には「弘長二年の十一月下旬のころより、病にかかられ、それより世間のことは話されず、ただ阿弥陀如来のご恩徳の深いことのみを語られました。他の言葉もはさまず、ただお念仏を称え続けられました。そしてその月の二十八日に正午、頭を北に、顔を西に向け、右脇を下にして臥したまま、ついに念仏の息が絶えました。御年齢は九十歳でした」と記し、ご往生の地を「長安馮の辺 押小路の南、万里小路の東」と記されています。押小路は三条通の北で、押小路の南は三条通の北にあたり、万里小路は富小路の一筋西の通りで万里小路の東は富小路の西にあたります。「三条富小路」は「押小路の南、万里小路の東」とほぼ同位置でご往生の地は顕智上人が聖人とお会いになった尋有僧都の善法坊であることは間違いがないようです。
角坊別院
本願寺第二十代・広如上人は親鸞聖人六百回大遠忌法要を迎えるにあたり僧純という学僧に命じ「親鸞聖人絵伝」に記された聖人ご往生の地である善法坊の場所を調査させました。
僧純は「絵伝」に書かれたご往生の地「長安馮の辺」を現在の角坊別院の地とし、これを受けて広如上人はこの地を取得し、堂舎を建て聖人ご往生の地として顕彰されました。これが現在の角坊別院です。
京の街は中央を南北に貫く朱雀通の西を右京、東を左京とし、漢の都長安と洛陽の名をそれぞれの名とし、右京を長安、左京を洛陽と呼びました。
京都は左右対称に街が造られ、通りの名も対称に同じ名の通りがあったため、左京の「押小路の南、万里小路の東」の地とされる柳池中学内にも現在親鸞聖人往生の地との石碑が建っています。
聖人の笠
角坊別院の現在の門は昭和二十四年に本願寺の南書院の門を移築したものです。その門の右側には笠が掛けられています。この笠は昭和十年に建てられた親鸞聖人像の笠です。この像は戦時中に供出され、戦後お体は戻りませんでしたが別院の同行が笠のみを探し出したものです。
この笠について廣岡隆圓輪番は「水戸黄門を見ていましたら、遅れて来る助さんのために黄門さまが自らの笠を旅籠の前にかけているのをみました。聖人の笠がここに掛けられているのも、いまも角坊に聖人がおいでになってお念仏のみ教えを私たちにつたえて下さっているそのことを伝えるためだと味あわせていただいております」とお話しくださいました。

慈眼山西照寺

親鸞聖人往生の地