加古の教信  教信寺

荷送の上人

 JR神戸線の加古川駅と東加古川駅の中間に念仏山教信寺(天台宗)があります。親鸞聖人は「我は是加古教信沙弥の定なり」と常に言っておられたと『改邪抄』で聖人の曾孫にあたる覚如上人は記しておられます。
この教信沙弥の遺跡に建立されたのが教信寺です。教信寺境内には教信沙弥の墓所や教信沙弥の頭部の像を安置した開山堂などがあり、教信沙弥の事跡を偲ぶことができます。
教信沙弥は平安時代初期の念仏者で、阿弥陀信仰に生きた人々の行実を集めた『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに紹介されています。教信沙弥はもと興福寺で仏道を学んでおられましたが、興福寺を離れ、諸国を遍歴し、播磨国加古駅の近くに庵を結び、その庵で教典も仏像も安置せずに、ただ西に壁を設けずにひたすらお浄土を想ったと伝えられています。髪を刈らずに街道を通る人々の荷物を担ぎ、農民の農作業をたすけながら念仏を称えて過ごしたので、人々は`荷送の上人aと呼んだり、常に念仏を称えていたので阿弥陀丸と呼んだといいます。

 今昔物語

『今昔物語』は「摂津国の勝尾寺に勝如という僧が居り、その僧が無言の行に励んでいるとき戸を叩く音がし、勝如が咳払いをすると『私は加古駅の北に住む沙弥教信というものです。長年念仏を称えて、往生を願っていましたが今日往生することができました。某年某日聖人も極楽のお迎えを得るでしょう』と告げて去りました。勝如はこれを聞き無言の行を止め弟子に、加古駅に行き教信という僧がいたか確かめるように告げます。弟子が行くと小さい庵の前に死人があり、犬や烏が集まりその体を競って食べています。その庵を覗くと老女と子供が泣き悲しんでいるので、この死人は誰かと尋ねると、『連れ添った夫で沙弥教信と申します。日夜念仏を称えておりましたが、昨夜死んでしまいました。だから泣き悲しんでいるのです』と答えました。帰って勝如にこのことを告げると勝如は教信の庵に行き念仏を称え、帰ってからも日々念仏を称え続け、教信が告げた日に亡くなりました。これを聞いた人は必ず往生したであろと尊く思った」という逸話を伝えています。『今昔物語』は「然れば、往生は偏に念仏の力也」と結んでいます。

 非僧非俗

教信沙弥の往生は親鸞聖人のご誕生の三百年以上前のことと伝えられていますが、親鸞聖人は髪を蓄え、妻子を持ち土地の人々と共に労働され、念仏を称えながら日暮らしをされた教信を尊敬され、「自分も教信沙弥のようでありたい」と話されていたというのです。親鸞聖人の有名な「非僧非俗」というお言葉は、結婚され妻子や地に働く民衆とともにお念仏の大道を歩まれた教信沙弥の生き方に共感しての言葉でもあります。

慈眼山西照寺

非僧非俗