住蓮山 安楽寺
 

京都東山哲学の道から程近くに法然上人・親鸞聖人などが流罪に処せられた承元の法難の直接の契機となった住蓮安楽が六時礼讃を修した旧跡がある。
浄土に往生するためには、念仏を称える他に、厳しい修行や寄進などの善行は必要がないという法然上人の説かれた専修念仏の教えは、時の関白九条兼実公から武士、庶民にいたるまで多くの人々に受け入れられていきました。こうした法然上人の教えは次第に比叡山や興福寺などの僧侶たちの反発をかうようになります。
七箇条起請文
親鸞聖人が法然上人の門に入った三年後の元久元(一二〇四)年、延暦寺の衆徒たちは専修念仏の停止を座主真性に訴えました。これを受けて、法然上人は朝廷に「七箇条起請文」を提出し、修行をする人に対して議論を仕掛けたり、非難することや、不道徳な行為をしないことなどの誓約書を百七十名の弟子達に署名させています。二尊院に残る起請文に親鸞聖人も八十七番目に僧綽空と署名されています。
興福寺奏状
翌年親鸞聖人が法然上人より「選択本願念仏集」の書写を許された元久二(一二〇五)年、南都興福寺より奏状が朝廷に出され、法然が専修念仏に偏執し、八宗を滅ぼそうとするのは天魔の所行だと専修念仏停止を訴えました。しかし朝廷は(法然上人)門弟の中に邪執の輩が法然上人の本懐に背いているとし、法然上人を擁護しつつ、積極的には動きませんでした。元久三(一二〇六)年興福寺は重ねて法本房行空と安楽房遵西の処罰を要求しました。朝廷も両名の念仏伝道が辺執(念仏以外の教え謗る)として罪科に問う院宣がだされました。朝廷でこの件の処理に当たった三条長兼は日記(三長記)に「縦へ不善を為すと雖も、勧むる所、執る所、只念仏往生の義なり。此の事に依りて罪科に行わる、痛哭すべし」と書いているように念仏を勧めることは罪科にあたらないという感覚を持っていたようです。
六時礼讃と院の女房
ところが建永二(一二〇七)年住蓮・安楽の事件が起きます。「法然上人行状画図」では「一二月九日、後鳥羽院が熊野へ御幸されたとき、住蓮安楽等が東山鹿ヶ谷で、別時念仏を始め、六時礼讃を勤めたところ、聴衆が多く集まり発心する人も多くあった。その中にいた御所の留守居の女房が出家した。御幸の後、後鳥羽院に悪し様に言う者があったため、院の逆鱗に触れ、翌建永二年二月九日住蓮・安楽が罪科に問われた」とその事情を記しています。安楽房、住蓮房の名は「法然上人伝記」に建久三(一一九二)年の秋、後白河法皇の菩堤の為に八坂の引導寺で六時礼讃を勤めた時、助音として記されています。「愚管抄」も安楽、住蓮の六時礼讃が「尼どもに帰依渇仰」されたと記しています。安楽房、住蓮房によって勤められた六時礼讃は、幅広い人々を引きつけ御所の女房たちにも浸透していたようです。
この事件によって住蓮房、安楽房ほか二名が死罪、法然上人、親鸞聖人などが流罪に処せられる承元の法難がおきました。親鸞聖人はこの処罰に対して「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ」「無実の風聞によりて罪科に処せられる」と非難しています。
松虫姫、鈴虫姫
寺伝によれば住蓮房、安楽房が六時礼讃を修した鹿ヶ谷の草庵の後に、法然上人が赦免後建てられたのが「住蓮山安楽寺」だと伝えています。境内には安楽房、住蓮房の供養塔と院の女房松虫姫、鈴虫姫の供養塔があります。院の女房の松虫姫、鈴虫姫名が初めて文献に記されるのは室町時代の写本が残る『松虫鈴虫物語』です。
また本堂には住蓮房、安楽房、松虫姫、鈴虫姫の像、法然上人、親鸞聖人の像も安置されています。
『法然上人伝記』には建久八(一一九七)年法然上人が九条兼実公の願いによって『選択本願念仏集』の撰述の際、当初安楽房が筆を執ったと伝えています。安楽房は法然門下において学識も認められていたことが推察されます。

慈眼山西照寺

住蓮山 安楽寺