恵信尼公の足跡を訪ねて ― ゑしんの里 ―山寺薬師
編集委員 酒井 淳


山寺薬師百段
親鸞聖人は関東での二十年に亘るご教化の後、関東の地を離れ京都へ帰られました。帰洛の年代ははっきりしませんが、聖人六十歳から六十三歳までのことであろうと考えられています。
帰洛に聖人の妻であった恵信尼公も京都へ同行されたと思われますが、それを確かめる資料は今のところありません。晩年恵信尼公は京都の親鸞聖人と別に越後で生活されていたことが、一九二一(大正十)年、本願寺宝庫より鷲尾教導師によって発見された恵信尼公の十通に及ぶお手紙によって明らかになりました。恵信尼公のお手紙が越後より京都の覚信尼公に宛てられていたためです。
恵信尼公は遅くともお手紙の内最も日付の早い一二五六(建長八)年九月(聖人八十四歳)までには越後にお住まいになっておられたことになります。
また蓮如上人のご子息である実悟上人によって作成された「本願寺系図」には親鸞聖人のお子様として七名の名が記されています。そのうち小黒の女房、栗沢信蓮房、益方大夫入道、覚信尼の四名の名が恵信尼公のお手紙の中に記されていますが、京都にお住まいになられていた覚信尼公を除くお三方はともに越後にお住まいになられていたことと推察されます。
また恵信尼公のご廟所のある板倉町周辺には「栗沢」、「益方」という地名があり、本願寺系図に名の見える高野禅尼に関係すると思われる「高野」という地名もこの周辺にあります。
また恵信尼公のお手紙には栗沢の信蓮房が山寺で不断念仏を修したことが記載されていますが、この山寺は恵信尼公ご廟所のある板倉町米益より東南へ八キロ程上った処にある「山寺薬師」(板倉町大字東山寺)だと推定されています。
山寺薬師は天平時代の創建と伝えられ、恵信尼公が越後にお戻りになった鎌倉期には天台宗の寺院として山寺三千坊と称されるほどの繁栄を誇っていたと言われます。山寺は後に鎌倉幕府によって弾圧され、殆どの坊舎を失いましたが、一三九五(応永二)年再建されています。

聖の窟
現在山寺薬師には県の重要文化財に指定されている薬師如来と釈迦如来・弥陀如来の二尊を脇侍とする三尊仏が安置されています。この三体の仏像は一九五八(昭和三十三)年解体修理され、その時に薬師如来の頭部内から「応永第二年大才乙亥七月二日大壇那三善讃阿大仏師筑後法眼」の墨書が発見されています。
「本願寺系図」には恵信尼公を「兵部大輔三善為教女」と記載していますが、この発見により恵信尼公の実家である三善家が現在の板倉町周辺に力をもった豪族ではないかと推察される重要な根拠となっています。
また三尊仏の安置されたお堂より山づたいに十数分程登ると栗沢信蓮房が不断念仏を行なったと言われる「聖の岩屋」があり、板倉町が建てた「栗沢信蓮坊修行の地」の案内板が立っています。
恵信尼公ご廟所より山寺薬師に行く途中には町営の宿泊施設「ゑしんの里やすらぎ荘」があります。山々の緑を見下ろす好立地にあり、玄関の左側には毎朝周辺で収穫された、山菜や野菜、野花などが並べられます。

慈眼山西照寺

山寺薬師