親鸞聖人の足跡を訪ねて ― 信濃編 ―善光寺

親鸞聖人は一二一一(建暦元)年流罪赦免の後しばらく越後に留まられ、四十二歳の折に関東へ赴かれた。
親鸞聖人の妻・恵信尼公のお手紙に、利根川と渡良瀬川の合流地の近くにあたる上野国「佐貫」(現在の群馬県邑楽郡板倉町佐貫)にて、親鸞聖人は生きとし生けるものの苦を抜かんがために浄土三部経の千部読誦しようと思い立ち実行したが、途中で自力の執心であると思い返して止めたと記されている。
この手紙から計算するとこの時は親鸞聖人四十二歳であり、関東移住はこの年であったことが明らかになった。
親鸞聖人の関東へ至る足跡は確定はできないが、越後の国府より善光寺街道を南に下り信濃より上野に入り、利根川水系を下り常陸に至ったと推察されている。その途中に位置する長野の善光寺には親鸞聖人の事跡を多く伝える。
善光寺仁王門前の東側に位置する宿坊の堂照坊の正面には「建暦三年三月 堂照坊二百日逗留 親鸞聖人舊跡」と書かれた立札が立っている。
縁起によると建暦元年流罪が許され、京へお帰りになる途中、善光寺に御参詣になりこの宿坊に百日逗留なされたという。堂照坊には、聖人がここから御出立の折、自ら書き記したとされる「笹文字御名号」が厨子に収められ本堂に安置されている。
「親鸞聖人御染筆笹字名号縁起」によると聖人が戸隠山に登り、そこで阿弥陀如来を拝し、その帰路に笹の葉で六字の名号の形を作られた。その名号を改めて筆でお書きになったという。また堂照坊第二十四代究阿坊が、京に、親鸞聖人を訪ね面会した折、抜け落ちた歯を貰い受けたと伝えられるその歯が本堂に、宝塔型の容器に収められ、安置されている。
堂照坊から参道を五分ほど歩き、善光寺の本堂に入ると、外陣左に大きな華瓶に生けられた松がある。この松は親鸞松と呼ばれ、親鸞聖人が善光寺参詣の折、阿弥陀如来に毎日松を供えられことに由来すると言われている。境内にはこの松を持たれた親鸞聖人の銅像が建てられている。
また本堂西側の奥には、親鸞聖人が百日逗留の折に、自ら爪で彫られたと言い伝えられる阿弥陀如来碑を安置している小さな祠がある。
善光寺の大門に続く中央通りには、七味唐辛子を売る「八幡屋礒五郎」などの風情のある店や、老舗旅館であった「五明館」をそのまま利用した郵便局などの趣のある建物が並ぶ。また陶磁器工芸博物館、ガラス博物館、文具博物館、和紙博物館など他にも多くの小さな博物館通り添いにある。
それらを見ながら七、八分歩き路地を西に入ると本願寺長野別院に着く。
長野別院は、北信濃で親鸞聖人に帰依された御弟子證誓が開基と伝えられる正法寺が、一九二五(大正十四)年、本願寺直属の別院となったという歴史を持つ。別院にお参りの後、事務所を訪ね「参拝のしおり」を戴くといい。しおりには別院の沿革とともに北信濃の親鸞聖人の御旧跡と伝承が詳しく記されている。

慈眼山西照寺

善光寺