延暦7年(788)、伝教大師最澄は、自ら刻んだ薬師如来を本尊とする一乗止観院を創建しました。これが比叡山の始まりと伝えられます。
平安時代を通して朝廷や貴族の帰依を受け、三塔・十六谷・三千坊と言われるほど栄えました。
 比叡山では法然聖人、親鷲聖人、一遍上人、道元禅師、日蓮上人など鎌倉仏教の祖師方が修学されました。養和元年(1181)・親鷲聖人は9歳にして、後に天台座主を務める慈円僧(慈鎮和尚)のもとで出家得度され、比叡山に登られました。専修念仏に帰入され比叡山を下りるまでの20年間を比叡山の僧として、厳しい御修行と御修学に励まれました。

比叡山の広大な境内は・東を「東塔」・西を「西塔」、北を「横川」と三つの地区に分かれます。
 横川は三代天台座主の慈覚大師円仁によって開かれました円仁は入唐し五台山の念仏三昧の法を持ち帰り・嘉祥元年(848)叡山に常行堂を建てて不断念仏を伝えました。
 『御伝妙』には「南岳天台の玄風をとふらひて…楞厳横川の余流流をたたへて」とあり、親鸞聖人が横川で修学されたと伝えています。
ひの頃、横川の首楞厳院は親鷲聖人の得度の戒師と伝えられる慈円僧正(慈鎮和尚)が検校を務められています。
 親鸞聖人の妻恵信尼公の消息(手紙)には「殿の比叡の山lにて堂僧つとめておはしましけるが」と親鸞聖人は比叡山で堂僧をつとめておられたことを記しています。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧です。
親鸞聖人が修学されていた頃、比叡山1には三つの常行三昧堂があったことが当時の文献で確認されています。
蕎麦喰いの木像
 親鸞聖人は29歳の時、比叡山から六角堂へ毎夜参籠されていた。聖人の師匠は、「決まりを破って山を下りているのでは」と不審に思い、夜、不在を確かめるため、弟子達を集めて蕎麦を出したところ、この木像が聖人に代わって食べたと伝えられる。
(伝)親鷲聖人御自刻

慈眼山西照寺

比叡山