高柳山 信願院 東弘寺
            二十四輩第九番善性房



東弘寺は二十四輩第九番に数えられる親鸞聖人の直弟善性房開基の寺です。東弘寺の縁起は善性房は後鳥羽院の第三王子順徳天皇の弟にあたる但馬の宮正懐親王であると伝えています。
法然上人とともに親鸞聖人が流罪に処せられた承元の法難は後鳥羽院の女房が、院の熊野御幸中に法然上人のお弟子であった住蓮房と安楽房が修した別事念仏の法会に結縁し、出家したことが後鳥羽院の逆鱗にふれたことが直接の契機となりました。
寺伝ではその後鳥羽院の親王が親鸞聖人に帰依し、お弟子となったと伝えています。

聖徳太子六臣連座御影像
善性房と豊田氏
「東弘寺縁起」は「宮正懐親王は比叡山に登り、名を周観とあらためられました。その才覚は比叡山においても秀でていましたが、比叡山における名誉や富を争う状況を嫌って、建保六(1218)年20歳にして比叡山を下り諸国行脚に出られた。下総国に至って、国主豊田四郎治親のもとに留まることとなった」と伝えています。
東弘寺の開基堂には永く常陸に勢力を張っていた豊田氏の居城豊田城にあった薬師如来像が安置されていました。(現在は水戸の県立美術館に収蔵されています)豊田氏は常陸大掾平重幹の第三子が政親が赤須四郎と名のり下総豊田郷に住したことに始まるといいます。赤須四郎は前九年の役で阿部時任追討の軍に加わり戦功をあげ、鎮守府副将軍に任ぜられ、豊田・岡田・猿島の3郡を賜りました。
天正三(1575)年下妻の多賀谷氏によって滅ぼされるまで豊田氏は500年余りに渡りこの地に勢力を持っていました。
「東弘寺縁起」は「周観が豊田四郎治親のもとに留まっていた時、周観は親鸞聖人が流罪を赦免され、越後から上州をへて下総に入るのを聞き、小島(下妻市小島)の地に聖人を迎えて、他力摂取の旨のご教示にあずかり法弟となった。後に聖人が常陸国稲田の禅房に教筵を布かれるに及んで、法義を受け法名を授けられて善性と称した」と伝えています。

東弘寺山門
『御消息集』善性本
高田専修寺に伝わる「御消息集」は「善性本」と呼ばれています。その包み紙には「御消息集1冊 飯沼善性房筆」と記されており、「御所持 顕智上人」と記されています。この「ご消息集」は善性房が記したもので、真仏房の後専修寺を継いだ顕智房が所持していたことが判ります。
「東弘寺縁起」は「(親鸞聖人が)豊田四郎治親の居城である豊田城にご滞留のある夜、薬師如来より、『この地は念仏弘通の宿縁がある故1つの道場を創立するがよろしい』と1枝の柳を授けられた。聖人は大変お喜びになってその枝を前庭に挿されると、不思議に一夜のうちに、1丈余り(3メートル余り)になったと伝えられている。治親はこの奇瑞におどろきよろこび、直ちに法弟となり聖人より良信という法名を授けられた。治親は倉持に道場(常陽市倉持)を建立し、『東弘庵所』と名付けた。後に善性は、その地に1寺を建立し、高柳山東弘寺と名付けた」と記しています。

飯沼と親鸞聖人
現在東弘寺がある大房から鬼怒川を越えたところに元東弘寺があった倉持があります。江戸期に新田開発で干拓された飯沼がかつてはこの近くまで広がっていました。先の「御消息集」には「飯沼善性房」とあります。東弘寺はかつて飯沼の東側に位置していました。飯沼の南、横曽根には、二十四輩第一番に数えられる性信房開基の板東報恩寺があります。報恩寺の参道には「親鸞聖人舟繋の松」があり、親鸞聖人が飯沼を舟でここまでこられ乗った舟を繋いだという伝承が残っています。親鸞聖人は東弘寺から舟に乗りあるいは報恩寺へ行かれたのかもしれません。
東弘寺には親鸞聖人と飯沼にまつわる伝説が伝わっています。親鸞聖人が15夜の月を見るため飯沼に舟を浮かべて、この池に小島があれば景色はいっそう増すであろうと話されました。その翌日池にでると小島が浮かんでいました。このことを聞いた渡辺周防という者が、親鸞聖人の高徳の現れであるとして、飼っていた雁を聖人に捧げました。聖人は仏法が末世に盛んになることを告げ、毎年この島に来るように告げて雁を島に放しました。以来雁は毎年10日ばかりこの島に寄るというのです。

慈眼山西照寺

弘徳寺