足立山野田院宗願寺

百八歳にて往生
『宗願寺略縁起』には正応三(一二九〇)年百七歳の時に関東の親鸞聖人の旧跡を廻られた聖人の曾孫にあたる覚如上人と会ったと伝えています。
 親鸞聖人ご往生の二十八年後のことでありました。西念房は覚如上人に親鸞聖人のご遺跡をご案内し、この時の資料をもとに覚如上人が『御伝鈔』を制作されたと『略縁起』は記しています。西念房その翌年百八歳で亡くなります。
『略縁起』は西念房の俗姓を信州小布施の城主井上五郎盛長の次男次郎道祐と伝えています。
『大谷遺跡録』は、西念房は八幡太郎(源)義家の孫で源義親の長男壱岐守満実の息男井上五郎盛長の長男宇野三郎源貞親と記しています。
『略縁起』は俗称を次郎道祐としていますが、法名を西念房道祐と伝えていますのであるいは道祐は法名であったかも知れません。
西念房の出と伝えられる井上氏は信濃国高井郡井上を本拠地とした豪族です。西念房の祖父にあたる井上満実は戸隠山別当もつとめ信濃国高井郡井上に館を設け井上氏を名乗っています。
源平の合戦における井上氏
仁以王の平氏追討の宣旨に呼応して各地の源氏が挙兵します。井上光盛も源氏の一族として木曽義仲とともに戦っています。平清盛の命により城氏は義仲追討のため、越後国府より大軍を率い発します。木曽義仲は信濃国篠ノ井の横田城に布陣し迎え撃ちました。この戦において井上光盛は木曽義仲とともに戦います。井上光盛の奇襲によって、平家方の兵は混乱に陥り敗走します。この戦いでの井上光盛の活躍を『平家物語』は大きく取り上げています。
平氏を打ち破り上洛した木曽義仲は御白河法皇と摩擦を起こし、源頼朝とも対立し、頼朝の命を受けた義経に敗れてしまいます。この時点では井上光盛は義仲を離れ、頼朝方に就いています。しかしその後井上光盛は甲斐源氏の一条忠頼とともに後白河法皇に接近したため頼朝から警戒され、元暦元年(1184)、駿河国蒲原駅で殺されています。
こうした戦乱の混乱に翻弄された一族に道祐は生を受けます。
越後の国府にて聖人との出会い
『宗願寺略縁起』は承元3年(1209)道祐は父の遺訓により京を追われ、越後の国府に居られた親鸞聖人の門下に入り、西念房道祐と称したと伝えています。
『略縁起』は建暦元年十一月に赦免となった親鸞聖人は、翌年の春国府を発ち、親知らずの難所を避けて三国峠を越えられたが、そこで法然聖人往生の知らせを聞き帰洛を諦め、関東に留まる決意をされ、常随の門侶であった西念房の案内に従い、武州足立郡野田の井上氏の陣屋にご逗留され、井上氏が創った草庵にてご教化を始められたこれが当山の草創であると記しています。
『略縁起』は武州足立郡野田を一族の所領であったと伝えています。
『略縁起』は建保ニ年(1214)常陸国下間の城主小島郡司武弘の招請によって小島に移られ、野田の御草庵に西念房を留守居として住持させ、西念は武州一帯に教線を拡げ、武州惣道場と仰がれたと記しています。
『略縁起』によると建武ニ年(1335)第3世西祐の時、兵火を避け二手に分かれ野田を出るが、一門は二つに分かれ一つは西念出生の地、信州上水内郡に移り、これが今の長命寺で、もう一派は上州邑楽郡の法福寺に疎開し、さらに康永元年に下総古河の移り、足立山野田院宗願寺と称したと伝えてすます。

慈眼山西照寺

宗願寺